2012年7月2日月曜日

EL Sistema の事


1981年生まれのベネゼエラ人指揮者・Gustavo Dudamel (グスタボ・ドゥダメル)の名前を私が知ったのは2009年・秋の事です。NHK 教育テレビの「芸術劇場」という番組で放映された演奏会、彼がアメリカのメジャーオーケストラの一つロスアンジェルス交響楽団の音楽監督に就任した記念コンサート、を聴いたのです。演目はアメリカ人作曲家ジョン・アダムス作曲の「シティー・ノワール」とG・マーラーの1番の交響曲「巨人」です。印象的だったのは、まず彼が指揮する“姿”の美しい事。そして、楽譜に基づき奏者(楽団員)それぞれが具体的な“音”として表現する多様な音楽について自分自身のイメージをはっきり持ち、それを奏者に伝える卓越した能力の持ち主である事。その結果そこに立ち現れる“音楽”が聴く人に対して大きな説得力を持つにいたる事等々。(しかし、考えてみればこの事自体、Dudamel だけがそうであるというより、指揮者一般に広く要求される能力でしょう。)

今年3月に再度そのDudamel が指揮する幾つかの曲を聴き、改めてすごい才能だと思いました。 私が聴いたのは、ベートーヴェン生誕の地であるドイツ・ボンのベートーヴェン・ハレで行なわれた手兵シモン・ボリヴァル・ユース・オーケストラの演奏でベートーヴェンの3番の交響曲(テンポが少し早めである事も手伝って、若々しいベートーヴェンがスックリと立っている姿を見る様な印象の、私には好感の持てる演奏でした)、また昨2011年夏ロンドンのロイヤルフェスティヴァルホールを会場に行なわれた“Proms 2011”で演奏された、同じ組み合わせのマーラーの2番の交響曲「復活」、そして同じくバーンスタインの「ウェストサイド物語組曲」などです。他にラヴェルの曲も聴きました。総じて彼の演奏に言えるのは、一時代前の指揮者に時折り見られる作曲家の国籍や時代による得手不得手がない(様に見える)事。聴き様によっては一本調子に聴こえなくもないその音楽も、ドゥダメルが現在音楽監督を務めるスウェーデンのイェーテボリ管弦楽団で2004年まで主席指揮者をつとめたネーメ・ヤルヴィが言う様に、彼が人間としての様々な経験を積む事でより深い表現を獲得し、音楽芸術としての説得力を増すのは間違いのないところでしょう。


さて、そのドゥダメルがベネゼエラでJose Antonio Abreu (ホセ・アントニオ・アブレウ)によって始められた「EL Sistema (エル・システマ)」と呼ばれる、“音楽の学び”を手立てとして案出された社会教育システム、で音楽家として育てられた事を知り、その「EL Sistema(The System)」に興味を持ちました。南米大陸の最も北に位置し、近年南米一の産油国として注目を集めているベネゼエラですが、私は社会主義国としてキューバの友邦国であり、またチャペスという名のいささか口の悪い大統領のいる国、位の知識しかありませんでした。そのベネゼエラは国民のおよそ7割近くが貧困層であり、白昼ギャングの発砲事件や麻薬取引なども日常茶飯の国だと知り驚きました。そんな環境に暮らす多くの子ども達を守り育てるべく案出されたのが、このEL Sistema なのです。

1975年カラカスのガレージを会場として、わずか11人の子ども達で始められたEL Sistema は37年後の今日、国家予算が60億円以上、ベネゼエラ全土に150以上のオーケストラが作られ、年間30万人の子ども達が学ぶ大きなプロジェクトに育っています。音楽教育そのものを目的として始められたプログラムではないにも関わらず、結果として才能を持ちながら貧しさの為に音楽を学べなかった子ども達を大勢発掘する事になり、いま最も効果のある音楽教育プログラムとして、アメリカ・カナダ・日本などで現地法人が作られ導入が進んでいます。創始者であるJose Antonio Abreu は1939年生まれの73歳。 作曲とピアノを学び指揮者として活動する一方で、経済学を学んでベネゼエラ政府の経済関係の閣僚や経済顧問を歴任すると云った(私どもから見れば)変わった経歴の持ち主です。ただ、その両面があったればこそ、“高い理想”が教条主義に落ち入る事なく“現実を歩き回る手足”を持ち得たのだ、と言えるのかもしれません。

2009年のTED Prize 受賞記念講演の中で、 Jose Antonio Abreu は「人間にとって真に悲惨な事は、住む家や食べるものがない事ではなく、自らが何者であるのかがわからない事(identityの欠如)なのだ」とのマザー・テレサの言葉や、イギリスの歴史家 A・トィンビーの「世界は今、大きな精神的な危機に直面している云々」を引用しながら、
( EL Sistema で)音楽を学ぶ事は、“音楽そのもの”に内在する力(真善美一如に近いニュアンスの表現で、彼の風貌から外村吉之介先生を思い出しました)が(前述の危機を克服する)子ども達の内なる可能性に働きかけて、人間として大きく成長させると共に、その事自体が子ども達の家族や地域社会、ひいてはベネゼエラ全体の希望になるのだ、という趣旨の事を述べています。2001年9・11の同時多発テロ、そして2011年3・11の東日本大震災、福島の原発事故と、天変地異の多発で幕を開けたここ10年のこれからを考えると、このEL Sistema が音楽教育プログラムとしてのみならず、次代を担う子供達を教え育む“手立て”として、東西文化の違いを越えて、世界の国々に広く受け入れられる事を願わずにはいられませんでした。

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