2008年11月24日月曜日

Try to remember・・・  2




まだ暑さの残る9月21日から1週間、八女の朝日屋酒店に於いて「山本教行作陶展」を開催いたしました。朝日屋さんでやって頂く催事としては,昨年秋の「西川孝次吹きガラス展」以来2回目になります。本年5月の「山本展」終了後、その朝日屋の高橋さんと一緒に残った荷物を車に積んで、鳥取県東部の岩井町にある山本さんの工房までお返しに上がった事は、最初のブログでご報告した通りです。その折の、山本さんの暮らしぶりや工房のたたずまいに至るまでが、若い高橋さんに強い印象を残したらしく、喜んで引き受けて下さる事になりました。
初日前日の20日に、私の担当である物並べに朝日屋さんにお邪魔しました。会場がお酒屋さんでもあり酒器が少し多い事をのぞけば、いつもの個展と同じ食器類や土鍋類を含む百数十点が用意されていました。前回と違って、物を並べる棚を作る必要もなく意外に早く作業が終了。市内で食事をした後,明日のオープニングパーティに備え、早くやすみました。
21日の昼前に、鳥取から山本さん御一家と御弟子さんが到着。今夕のパーティに使う食材ならびに,コップ類から食器に至るまですごい量の荷物と一緒です。30年近く前、初めて伺った山本邸で私も経験済みの、山本夫人・房江さんの手になる美しく且つ美味しいお料理は極めて強い説得力を他人に対して持っています。
案の定パーティ開始が近づいた夕刻には、遠く熊本や宮崎などからもお客様がお見えになり、私どもを含め30人程の人が用意された御馳走と、繁枡のお酒数種併せて五升程を胃の腑に納めました。ちなみに食材はすべて,山本さんの工房のある岩井町の地元産の鮎・猪・鹿などを使ったお料理でした。

2008年11月23日日曜日

菖蒲学園 訪問の事





鹿児島を訪問する前「菖蒲学園」の学園長 福森さんに連絡を差し上げて、14日金曜日に学園をお訪ねする事にしました。この朝、鳥取から夜行バスを乗り継いで可否館に来てくれたG女史ともども総勢5人。昼食は学園のレストランで食べる事にして、可否館の永田さんにご案内頂き1時過ぎに「菖蒲学園」へ。まずはレストラン「お多福」に行き、皆でパスタ定食を食べました。モダーンで綺麗な建物、聞けばテーブルや椅子は福森さん御自身の作であるとか、最初の驚きがここから始まりました。私はクリームソースの生パスタを頂きました。美味しい上に安くて(950円)びっくり。昼食後お別れした永田さんをのぞく4人を福森さんご自身で、園内の工房や住居棟を長い時間ご案内下さいました。私がこちらをお訪ねしたいと思ったのは、今年の7月友人の住むメルボルンに出掛けた折、朝食を取る為に入ったカフェで知的障害を持つ人達の絵の小さな展覧会をやっていて、その仕事が私には何とも素敵に見えたからなのです。
さて、知的障害を持つ人達の為の施設「菖蒲学園」には、縫い(刺繍)、木工、焼物、和紙の他平面の仕事やレストランなどで、入所している人や通って来ている人が仕事や作業に従事しています。ご案内頂く福森さんのお話しの中で興味深く聞いたのは、比較的障害の重い人達にとっては、具体的な作業そのもの(例えば布を糸で刺す、或は刃物で板に傷を付ける)の中にそれぞれの興味があり、その作業が終わると自分が手掛けた(例えば2年がかりでシャツにびっしり刺繍をした)ものに対する執着は、なくなるのだとか。出来上がったものに対する思惑(果たしてこれが幾らに売れるだろう等の価値観)に左右されている我々には、耳の痛い話です。その後、ご案内頂いた住居棟では、使われている無垢の建築素材や設備の充実している事に驚かされました。そして、なるほどと思いさもありなんとも思ったのは、これらの施設が出来てから入所者の人達の情緒面が、とても安定して来たとのお話を福森さんから聞いてからです。私たち自身の住まいを考えてみても、そこで使われている素材の大半は偽物です。木の振りをした床材、木目の模様をプレスした外装材等々。私自身、ある時東北行きの新幹線の窓から外を眺めていて、さてどの辺だったのでしょうか、1軒の家のほとんど全てが石油製品の加工品で出来た家々が、ずらりと並んでいて唖然とした事があります。周囲の自然や風景との何と云う落差。話が脱線しました。最後に、出来た物や作品をストックしてある場所で「平面の仕事」を拝見し、来年早い時期の再訪を約して、福森さんとお別れいたしました。私にとって充実した1日になりました。

2008年11月21日金曜日

30年ぶりの鹿児島





オーストラリアにいる娘に、「私が読みたいから・・」と言われていやいや始めたブログなので、それを書き始める時間が例えば夕食後だったりすると、ビール(第3の)も入っていて面倒になりついずるずると2ヶ月も間が空くなどと云う事にもなる訳です。
今日は自宅でやらねばならない仕事があり,それに取りかかる前に1本書いてしまおう(実は忘れないうちに)と思い立ち、かく書き始めた次第です。
さて,前回のブログにも書きました様に、小鹿田・坂本工窯の新作展開催準備の為、先週の木曜日から30年ぶりの鹿児島に出掛けて来ました。
会場は,開店25年程になる老舗のコーヒー店「可否館」です。店主の永田さんは,もともと焼物を始め民藝品が大好きな方で,お店でも業務用に色々なカップをお使いになっており、お客さんに頼まれれば,頒けておあげになっていたとか。店にお勤めのYさんやHさんが,たまに当店を訪ねて下さり,しばしばお買い上げを頂きました。
そんな経緯も有って、坂本工窯の新作展会場候補としてお声を掛けたら快諾して下さったのです。さて13日の早朝,特急と新幹線を乗り継いで「鹿児島中央駅」へ。Yさん・Hさんのお出迎えを受け、会場の「可否館」へ。店の普段のしつらえを少し変えて,物を並べる場所を作っていて下さった事と荷解きをお願いしていたので、コーヒを御馳走になった後すぐに作業に入りました。普段ご自分のコレクションを並べておられる棚を空けていて下さったのですが、棚と棚との間に充分な余裕がなく大苦戦。汗をかきかき、その間に美味しいコーヒーやらスポーツドリンクやらを御馳走になってなんとか夕方に終了。催事のおりの当店では,物が並んだ状態しかご存じないYさん、Hさんはびっくりなさったみたいです。
夜は,坂本さんの高校時代の大親友夫婦と,夜の天文館へ。私はくたばって一足先に失礼しました。14日は,楽しみにしていた「菖蒲学園」訪問。お昼をご一緒して下さる永田さんのご案内で、坂本さん夫婦ともども学園へ。聞けば、学園長の福森さんとも以前からの顔なじみでいらっしゃるとか。不思議なご縁としか言いようが有りませんね。
その「菖蒲学園」訪問以後の事は,また次回。

私たちのやって来た事、やろうとしている事






今月24日まで鹿児島で、その後唐津・福岡の順で小鹿田・坂本工窯の「新作 無地シリーズ」の展観を行う事になっています。
以下の文章は,その展観に際しシリーズの経緯を説明する為に私が書いたものです。

2006年11月に友人の柳沢敏明さんがやっている埼玉・浦和の柳沢画廊で「あまねや工藝店」としての 催事を引き受けた時、頭に浮かんだのは会場が美術画廊である以上見に来て下さる方々は、主として平 面の作品を多く見慣れておられるに違いない事、したがって企画の柱になる作品は平面に近いものの方 が、見て頂き易いのではないかと云う事でした。
そこで、その前年当店催事として行われた「小鹿田・坂本工(さかもと たくみ)窯の仕事展」に出品された 尺一寸皿100枚を用意し、それを催事の中心に据える計画を立て、坂本工さんに相談をいたしました。 まず、この試みが一回きりのものではない事。現状を見る限り、今の小鹿田窯の仕事そのものの中にこれ から先の時代につながる可能性が(私には)見い出しにくい事。であるとすれば、今それに対して何らかの 形で具体的な提案をすべきではないか、ただしそれはすぐには実を結びにくい事。 小鹿田窯のこれ迄の三百年を考えれば、三百年先に元をとるくらいの覚悟でやらねばならないだろう事。 こんな無茶な私の提案を概ね、坂本さんが呑んでくれたお陰でこの企画が実現する事になりました。

坂本工窯の窯焚きは、1年に平均で5回です。これまでは、作られる品のほとんどすべてが注文品であり 特に腕の良い坂本工さんは、料理研究家の辰巳芳子さんに見込まれて、彼女の案になる「擂り鉢数種」の 制作に忙殺されています。 注文をこなしてさえいれば家業は安泰である筈なのに、見込みの立ちにくい新しい仕事を坂本さんが引き 受けて下さったのは、説得に応じてと云うより私への並々ならぬ御好意の故だと、勝手に思っています。

さて、一年で尺一寸の皿100枚を準備するのは、口で言うほど容易な事ではありません。
これを単純に 5回の窯に割り振れば、1回につき20枚の皿を用意すれば足りる計算になります。しかし、窯に入れた 皿の全てが作品として採れる訳ではなく、焼成の前に素焼きをしない「生掛け」と呼ばれるやり方で仕事を 進めて来た小鹿田窯の場合、焼き割れや歪み、生焼け等々の不良品が発生する確率がひときわ高いの です。それらの諸条件を考えれば、まず必要とされる量の3倍、300枚が1年間の目標枚数になります。
しかし、数への見込みはこれで良いとしても、「何をどのように作っていくか?」これはもっと大きな問題 です。 この計画を進めて行くに当たって、実作者でない私に出来る事と出来ない事、やって良い事、 いけない事を、自身の中ではっきりさせる事が必要でした。 まず決めたのは、次の様な事です。
「何を作るか」については作り手の坂本さんが決める事。作る物のヒントや切っ掛けになり得る古今の様々 な品々を持ち込んで見て貰ったり、出来上がって来た物への感想を述べる事、更に展覧会に出品する物、 しない物の選択は私が責任を持つ事にして、坂本さんの仕事が進むのを待ちました。
「窯が開いた」と連絡を貰う度に坂本家に出掛け、窯出しされた作品の中から展覧会に出すべき品を選ぶ、 そして夜は、奥さんの嘉代さんの手料理と酒を食べかつ呑みながら、遅く迄あれこれの事を語り明かす。 この繰り返しは、私にとって実に楽しい経験であり充実した時間でしたが、作り手の坂本さんには苦しくも あり、不安でもあったに違いないのです。それでも、なんとか目標の数を作り終え「抽象紋の皿100展」と 題し、2006年11月2日から14日迄、前述の柳沢画廊で無事開催にこぎつけ、幸い好評を得ました。 その時の模様は、以下の柳沢画廊のホームページのアドレスにアクセスすれば、ご覧頂ける筈です。
http://www5.ocn.ne.jp/~gyanagis/

今年2008年度の坂本窯・新作への試み「無地シリーズ」は、小鹿田窯の仕事を更に源流へとさかのぼり、 「化粧(模様)」の意味を確認する為に、加飾を施さない裸の形を探り求める処から、改めて出発しようと云う ものです。作り手にとっては更に厳しい課題が続く事になりました。来年はその課題を踏まえた上で「模様 の発見」へと向かい、その後「標準(スタンダード)への提案」と計画を進めて行く事になります。2年後の2010年には福岡と埼玉・浦和での展観を
終え、ひとまず「新作の発見シリーズ」を終了する予定です。
これらのシリーズは,それぞれ独立したものでありながら互いに深く関わり,課題もまた一年で解決されるものではありません。私たちのささやかな試みの幾つかが,いつか野草の様に小鹿田の地に確実に根をおろし,静かに拡がって小鹿田窯全体の定型(スタンダード)の
一つとして受け入れられ,続いて行く事。
これがこのシリーズの目標であり,私たち二人の願いなのです。

2008年11月12日水曜日

十回の深呼吸の為に





昨年の8月、友人のカメラマンから25年程たった古いポタリング用の自転車を貰いました。手を入れて、自宅から太宰府天満宮までの往復約8キロ、時間にして30分程を朝早い時間に走ってみる事にしました。中学時代から走り慣れた道、自宅から坂本の部落へ下り「太宰府政庁跡」を東に進んで、「観世音寺」の裏から白川沿いに走った後、天満宮の参道を上り太鼓橋手前の大鳥居をくぐって、また自宅まで。とても気持ちのよい道です。走り初めて気がついたのは、その時間に出会う同年輩の人達の数の多いこと。歩く人、走る人、自転車の人もいます。そして、ひと月ふた月と続けているうち、自然に目に入る風景の移ろい、稲田や周囲の山々、寺院の木々の変化などに改めて気づかされました。この朝の散歩の中で、私が一番好きな事。坂道を「太宰府政庁跡」へと自転車で下りながら、胸を大きく開き十回程する深呼吸です。この十回の深呼吸の為だけにでも、朝の散歩を続けたいと思っています。今朝見ると、観世音寺の南京黄櫨(ナンキンハゼ)が色づき始めていました。

2008年11月10日月曜日

Try to remember・・・




前回のブログからはや2ヶ月半。9・10月の2ヶ月に何もなかった訳では勿論ありません。
たぶん色々な事があり過ぎて自分の中でうまく整理が出来ず、言葉を紡ぐまでに2ヶ月の時間が必要だった、と云う事にしておきましょう。手元の忘備録をもとに2ヶ月を振り返り、書いてみます。9月第1週の土曜日に、娘婿の両親、ダイアンとデボンが来福。最初の夜、一緒に行った友人のすし処「Y」で印象深かったのは、彼らの味に対する正確な判断力でした。
シドニーにも日本風の寿司屋があると云う話は聞いていますし、そこで出てくる寿司が日本のものとは少し違うとも云います。そんな中、決してオーソドックスとは云いがたい「Y」の寿司をその美しさも含めて、ちゃんと理解して賞味している事に感心したのです。
デボンなどは、付け合わせの、生姜を何度もおかわりしてYを嬉しがらせて(?)いました。

翌日は、日頃から付き合いのある小鹿田窯のS家に寄り、山間の小さな焼物を生業にする集落の風情を楽しんだ後、熊本県・小国の奥にある「小田温泉」に一泊。
日本滞在中に、日本式の旅館に泊まってみたいと云っていた彼らへの我々からのプレゼントのつもりです。夕食に「馬刺」が出たりして、少し心配しましたが、全く問題なし。露天風呂も楽しんでいました。翌日我が家にもう一泊。長崎に行くと云う彼らを送って、乗換駅のある鳥栖まで夫婦2人で行きました。福岡滞在中デボンはひどい咳をしていたので心配していましたが、電話で尋ねると「長崎で病院に行ったとの事」一安心です。その後、東京に回り21日に成田から無事に帰国しました。3週間の日本滞在中、何が一番心に残ったか聞いてみたい思っています。続きは、また次回。