2017年7月31日月曜日

忘れられないもの 28 リーチさんの言葉 2


工藝の世界に関わる人間、特に「作り手」にとって、一番の念願は「良い仕事(人々の暮らしのために役に立つものを作る、と云う素直な思いで無心に作る仕事 ー 多々納弘光連続講演会濱田庄司篇ー )」を自分の仕事として具体的な造型(かたち)にする事、でしょう。しかし、これが決して易しくはない事も、また銘々が充分にわきまえている筈です。では、一体どうすれば、目の前の高い壁(言わずもがなですが、この壁は自意識と云う名の、自らが作り出したものである訳です)を乗り越えて「彼方(良い仕事)」にたどり着けるのか?今回は、この事を考える手掛かりとして1978年に出版されたB•リーチの著書 「Beyond East & West 東と西を超えて 」の中に出てくる言葉 「 Life itself 生命そのもの 」を、皆さんにご紹介したいと思います。

日本語訳の「東と西を超えて」(日本経済新聞社1982年刊)で申しますと、231頁の後半から234頁前半に掛けての数頁と、最終章に近い「日本の工芸家への別離の手紙」の391頁に次の様に書かれています。「この時、何か新しいことが起こりました。ー 活きた陶器が生まれたのです。<中略> 芸術家(註 リーチさん)が自分の孤立を忘れ、真であり美である目的物のために団結出来、また団結するつもりの工芸家たち(註 後述の舩木さんや出西窯同人)と完全に協力することができる時、
ある<力>が自動的に発現した ー それが<生命そのもの>なのでした。」

少しわかりにくい日本語ですが、これは出西窯(しゅっさいがま)の多々納弘光(ただのひろみつ)さんの講演記録によれば、1964年10月16日の午後の事で、リーチさんの他に布志名(ふしな)の舩木研児(ふなきけんじ)さんと出西窯の同人仲間とで取り組みが行われています。
前日、リーチさんによって描かれた紅茶碗や水差しなど数種の食器の指図書を元に、「 例えば取っ手の場合は、木から枝が生える様に、とか、或はこういう処は、足のくるぶしの曲がったような線をだせ、とか <中略> 体や自然のものになぞらえて、指示をされました。
ですから、とてもわかり易かった。その日は午後から夜に掛けて、
どんどんどんどん作り、私達も何となく楽に出来る様になりました。
<中略> お酒も飲まないのに、皆が本当に酔った様な喜びの時間を過ごしました。」と、こう記(しる)されています。

この時に作られたものが、先に触れた「活きた陶器」であり、それを産み出した力あるいは産み出されたものが、「Life Itself 生命そのもの」と表現されている言葉である訳です。
1954年に出版されたリーチさんの著書「日本絵日記」の中で、日本の陶工達が、自分の作った物をそっくりそのまま真似る(サインまで)のに、辟易する様子が書かれています。そんな、自他ともに認める「芸術家」としてのリーチさんが、この時は「自己表現」への執着を捨て、ひたすら「良い(人の役に立つ)」仕事を目指し、また他の共働作業者達もそれに歩調を合わせて仕事をした結果、実現(文中の言葉を使えば「発現」)し得た「 Lifeitself 生命そのもの」であった訳です。

この事は「民藝の世界」にとって、真に大きな意味を持つ出来事であったと思います。幾つかの条件付きであるにしても、深い愛情と信頼関係で結ばれた師匠と弟子であれば、自意識の固まりである現代人ですら「活きた陶器」が、こうして産み出せる可能性を示し得た訳ですから。しかし、この後「出西窯」で、次々に「活きた陶器」が産まれ続けた訳では勿論なく、多々納さん自身、同じ講演記録の中で「しかし、この問題は、現に現在の私達の仕事を振り返ってみましても、決して卒業出来ているものではありません。自分のわがままの中でしかものが出来ていないのが実情です。 」と正直に述べています。


今回、皆さんに御紹介する三種の品々は、この「生命そのもの」の輝きに満たされている仕事です。初めはインドネシアの樹皮の曲物の物入れです。蓋の上部と底板は加工した板をそのまま使い、被せ蓋と胴の部分は樹皮の曲物で、それを合わせる為に籐を上手く使っています。(高さ 23cm 径28cm) 


次は、朝鮮•高麗時代の丼ほどの大きさの象嵌の碗です。碗の縁から少し下がった処と、見込みの心持ち外側に引かれた数条の白い象嵌の線が、この碗の中の景色を生々と引き立てています。
(高さ 9cm 径 18cm) 


最後は、福島県会津本郷(あいづほんごう)の飴釉の切立甕(どうやら漬物用)です。小さな火鉢程の大きさで、朝鮮の鉄瓶と合わせて点茶に使ってみたい品です。(高さ 22cm 径 25cm)

8月11日 追記 今回の原稿は、自分で読み直すたびに何か不十分で本意をお伝え出来ていない気がして、ここ10日間で何度も手を入れました。従って、何度かこの文章を読んで下さっている方があれば、読む度ごとに、細部が少しづつ違う事にお気づきだった筈です。

2017年7月25日火曜日

小鹿田焼復興支援についてのお願い


約3週間前の7月5日から6日未明に掛けて、北部九州は処により時間雨量100mm超の激しい雨に見舞われました。この雨により、日本を代表する民窯「小鹿田焼」の里も大きな被害を受けました。日田の町から小鹿田に上る手前の集落の小野地区は、山の斜面の大規模な崩落により土砂ダムが出来、下流の住宅には一時「避難勧告」が出された程です。迂回路が出来て、ようやく交通の便は確保されたと聞いていますが、復旧作業がすぐに始まったにしても、災害前の旧状に復するのにどれほどの時間が掛かるのか見当もつきません。先週金曜日21日から、復興支援の為の基金を広く募るために下記の口座が設けられました。皆様方にもご支援をお願いすべく、この小文を書きました。詳しくは下記のサイトまで。

http://ontayaki.support

2017年7月17日月曜日

忘れられないもの 27 リーチさんの言葉 1


先の大戦後間もない1947年に5人の若者によって始められた出雲の出西窯(しゅっさいがま)。その出西窯初訪問の事や仕事については、すでに本稿「忘れられないもの 23」で取り上げました。ところで、その出西窯窯創業から50年目にあたる1997年12月から翌年12月にかけて、当店主催で創業者5人の同人の御一人•多々納弘光(ただのひろみつ)さんに、同窯に縁の深い(多々納さん仰るところの)「お師匠樣方」、河井寛次郎(かわいかんじろう)、濱田庄司(はまだしょうじ)、バーナード•リーチ〈以上、陶芸家〉、吉田璋也(よしだしょうや)〈鳥取民藝美術館初代館長•鳥取民藝協団創設者〉、村岡景夫(むらおかかげお)〈日本民藝協会専務理事〉、外村吉之介(とのむらきちのすけ)〈倉敷•熊本国際 両民藝館初代館長〉、柳宗悦(やなぎむねよし)〈日本民藝館初代館長〉、山本空外(やまもとくうがい)〈浄土真宗僧侶〉の8人の方々について、6回に分けて講演して頂いた事があります。多々納さんの手元に残されている当時の日記を始めとした数々の記録と縁(ゆかり)の品々を元にして、毎回、興味深い、面白くも感動的な話をその場に集まった者達に熱心に語って下さいました。

その連続講演会の3回目にお話し下さった英国の陶芸家B•リーチ氏(以後、リーチさん)の時も、1954年から始まる出西窯との縁の事。また、リーチさん5回目の来日になる1964年には、出西窯に丸二日間滞在し、仕事の手本になるカップやジョッキにポットそしてピッチャー等、たくさんの作品や指図書など、宝の様な品々を出西窯に残している事などが語られました。そして、今回皆さんに是非お伝えしたいと私が思った言葉が、後年リーチさんが亡くなった時に多々納さんが書かれた追悼文の題名、「この茶碗に唇を触れて喜びがあるか?」(これはリーチさん御自身がよくそう仰っていたのを思い出しながら書いたと多々納さんは仰っています)なのです。

この言葉自体、極めて感覚的な言葉の様に聞こえますが、実作者としてのリーチさんならではの言葉で、作り手の側から見た工藝品の道具としてのあるべき姿を、実に判りやすい言葉で表わしている様に私には思えます。これは、7回目の来日時の1966年11月12日、松江で行われた「歓迎会」席上での卓話。当日参加の多かった作り手に対して語られた言葉である、「みんな、自分で使って自分で喜びを確かめながら作れ。自分の作ったカップに唇を当てて喜びがあるかどうか。手に温もりが伝わるか。」とも重なって、深い印象を残す言葉になっています。しいて言えば、厳しい眼に適う美しいものは、人間の五感に働きかけて身内に「喜びの感情」を引き起こすものだ、心して作りなさい、位の意味になると思います。


さて、今日皆さんに御紹介する三種の茶碗、二つの刷毛目碗
(左 径17cm 高7cm 右 径18cm 高7•5cm)は李朝時代の鶏龍山
(けいりゅうさん)のもので、右の碗は特に出西窯の引刷毛目碗の原型の様な仕事になっています。


李朝の無地刷毛目の様に見える碗(径17cm 高7cm)は、魚文皿の仕事で知られているタイのスコタイの窯のもので、先の朝鮮の碗と比べて見ると、材料の土が全く別物です。
いずれも唇に触れて味わいたい趣を持つものです。

2017年7月4日火曜日

わすれられないもの26 軟陶の焼物三種


今回、皆さんに御紹介する「軟陶の焼物」とは、比較的低火度で焼かれた焼物の総称で、日本の楽焼や中国の唐三彩がそれにあたります。以前、この欄で御紹介した「アフガンの古鉢」もそうです。ただ現在、普通の家庭の食器棚の中は、硬質陶器や磁器と呼ばれる硬めの壊れにくい食器類がほとんどで、「軟陶」と呼べるものがあるとしても、日本ですら「土鍋」くらいでしょう。しかし、世界にはまだまだ「軟陶の焼物」が沢山あるのです。試しに、当店在庫の「軟陶」生産国を順不同で挙げてみると、イラン•インド•アフガニスタン•インドネシア•ビルマ•トルコ•ペルー•メキシコ•エクアドル•スペイン•ルーマニアそれに日本の12カ国。「硬質陶器や磁器」は、中国•韓国•タイ•日本の4カ国、と「軟陶」の三分の一です。
ただ、これを世界の市場で流通している数で比べると「硬質陶器や磁器」が逆転し、圧倒的多数です。何故か、と考える事もないくらい理由は明々白々です。機械工業的な技術(例えば、焼成の際のトンネル窯など)に下支えされた「硬質陶器や磁器」の大量生産と低価格、これにつきます。一方、「軟陶」生産国の数が多いのは、材料の陶土と技術に長けた陶工さえいれば、比較的簡単な設備で地域の実情に応じた制作が出来るからでしょう。


さて、最初に御紹介するのは、スペインの四耳壺(口径 38cm 高さ 27cm)です。堂々とした体に立派な耳がついています。30年以上前に手に入れました。


次は、インドネシアの黒陶の鉢(推定 径 26cm 高さ 7cm)です。一見すると、質感が石を思わせる品で、中には「擂り目」の様な筋が横に入っています。古窯系の擂鉢を彷彿させる魅力的なものです。


最後は、トルコの小壷(大 口径13cm 高さ 22cm  小 口径 8cm 高さ 14cm 推定)です。仕事を始めて、4•5点しか類品を見た事がありません。数が少ないのは、実用陶でありながら軟陶なので、大半は壊れて残らなかったのかもしれません。古い時代の信楽(しがらき)の種壷かパナリ焼を思わせる様な仕事です。今の日本で造型される同種の写しに比べて、邪気が感じられないのが不思議です。(品物のサイズで推定とあるのは、現在手元にない為です、あしからず)

2017年7月3日月曜日

「西川孝次吹きガラス展」始まる


梅雨が明けた様な厳しい暑さの7月1日。無事に「西川展」の幕を開けました。空調の電源を未だ入れておらず、汗を拭き拭きの初日になりました。幸い、たくさんの方々にお出でいただき、西川さんの吹きガラスの仕事に関するおしゃべりも絶好調でしたよ。

一 • 二階踊り場の様子
二階正面の様子、三点の絵はR • ゴーマン作
正面左右の様子
二階道路側の花々
庭側の花
床や舞台上の西川作品
閉店後、舞台を「吉富」に移して
行われた38年記念の「三店合祝」
「三店合祝」で挨拶する西川さん
会も終わりビールを片手に