2011年7月11日月曜日

「第85回 国展・福岡展」を見て


7月2日、土曜日。福岡市美術館で開催されている「第85回 国展・福岡展」を見に行きました。以前、北九州市美術館で行われた「国展」開催の折りに、展示の手伝いに出掛けて以来ですから、福岡で見るのは20数年振りという事になります。公募展を見に行く機会があまりない私にとって、今回の公募展見物(?)はまことに強烈な体験でした。その事をお話ししてみます。

会場に足を踏み入れますと、通常は「企画展」の時に使われる、奥の広い展示室に絵画や彫刻・版画を、そして手前の少しこじんまりした展示室に工藝部門の作品と写真が並べられています。ここで、工藝部門の仕事の印象を述べる前に、絵画の並ぶ部屋を見た時の事を先にお話ししましょう。絵が並べてある部屋は美術館の展示室ですから、私達の馴染んでいる一般的な部屋に比べれば、あたり前ですが天井は高く(たぶん4〜5m位)また広いのです。その部屋の壁一面、上から下まで、右も左も、前も後ろも(たぶん大半が150号とか200号の)巨大な画面(あたりまえですが、それぞれ違う表現の)を持つ作品で埋め尽くされていて、圧巻と言えば圧巻ですが、並んでいる絵画のそれぞれが見ているこちらに向かって、思い切り大きな声で叫んでいる様な印象を持ちました。どうやら、この会場で必要とされているのは、作品を通じて見ている人に“自分の声”を届けると言うより、他の作家に負けない様に、他より大きな身振りや声で、自分の存在をアピールする事が優先されている様にしか、私には見えませんでした。
以前、私に公募展の出品作が大きな画面である事の理由を教えてくれた友人がいます(大きい方が、作家の力量がはっきりとそこに現れる)が、個々の作品の優劣(あるいは好き嫌いと言えば良いのでしょうか)はともかくとして、こんな形の展覧会で並んでいる絵をじっくりと見て、その絵を好きになる人が果たしているのでしょうか。
そもそも、これらの作品自体、表現の向こう側に自分と同じ人間(絵を見る人、あるいはその表現を受容する人)を想定して描かれているのかどうかすら、私にはわかりません。こんな私の見方自体が、あまりに素朴で雑駁に過ぎるのでしょうか。

さて、工藝部門の作品の印象ですが、絵画部門に比べると小さな部屋二室に、染織りが8割程、他の陶磁・木工・ガラスが2割くらいに見える感じで並んでいました。絵画に比べれば、実用と云う“くくり”があるだけ、見え方は破天荒でもなく、うるさい感じもしませんでした。ただ残念ながら、そこに並んでいる様々な作品の中に、大きな説得力を感じさせるものを見つけるのが、私には難しかった事を告白しなければなりません。何故でしょうか。此処でも領域こそ違え、絵画の並ぶ部屋と同じく“大きな作品(例えば、陶器ですと尺五寸位の皿)”が目につきます。大きなものと小さなものが並んでいると、どうしても大きなものが“物理的に”目立ちます。ですから、自分自身の作家としての技術的、感覚的力量を反映させた上で、具体的な形を持つ工藝品として表現する為には、大きな作品の方が“他”(これが一体誰なのか、それが問題でしょうが)に対して説得力を持ちやすい、と考える事に矛盾はない様に見えます。でも、たとえば意匠違いの湯呑みが10個とか、八寸皿が5枚とか、そんな見ている方が想像する事で、日常の暮らしにつなげやすい出品作(入選作)が、工藝部門であればこそ、あって欲しい気がしました。

それからもう一言。会員の方々には余計なお世話でしょうが、工藝部門に於ける今年の様々な受賞作の中で、最高賞に当たる“国画賞”に選ばれていた“チェスト”の受賞は、私にはどうしても納得のいかないものでした。旧知のKさんにお尋ねしたところ、その年の出品作中、作品として圧倒的な説得力を持つものが選ばれる訳では必ずしもなく、これがまた面妖というか、団体に縁のない私にはとても理解出来ない、一種“政治的な”駆け引きの様な事で決まるのだそうで、この事自体、私にとって俄には信じ難い事でした。ここにもまた作者や“表現”を蝕む現実が、顔を覗かせているのでした。

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