2017年1月23日月曜日

忘れられないもの 22 一人用の食卓(膳)三種


新しい年を迎えるにあたり、皆様方のこの一年の御多幸をお祈り申し上げます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。さて、これを読んで下さっている皆様方は、新年の食卓をご家族で囲み雑煮を祝う方々が大勢いらっしゃると思います。ただ、現在の暮らしは以前に比べて、大きな食卓を家族皆で囲み朝食や夕食を摂る、そんな場面がずいぶん少なくなっている様に思いますが、如何でしょうか?
そこで、家族関係の融和を計り改善に役立てるべく、厚生労働省によって新しく考案された、家族数人で囲む「独り用の小さな食卓」三種が今回御紹介する品なのです(と云うのは冗談です)。
さて、この三種の一人用の食卓(膳)ですが、


最初に御紹介するのは松材で作られた韓国の羅州盆((高さ27cm 径46cm)です。韓国の歴史ドラマを見ていますと、これに甕器の小鉢や徳利が載せられて、酒や食事を楽しんでいる場面が出て来たりします。他に欅を材料に使ったものもあります。


次は、藤と竹(構造に関わる部分は籐で、テーブルの面にあたる部分が竹)で作られたタイのラフテーブル(高さ23cm 径43cm)です。タイの少数民族ラフ族の手になる事から、そう呼ばれている様です。当店では、催事の際の花台によく使います。カントクテーブルとも呼ばれます。日本で使うちゃぶ台位の数人で使う大きなものもあります。


最後はインドネシア•ロンボク島産の木彫でデュラン(高さ20cm 径40cm)と呼ばれるものです(このデュランの用途は供物台かも知れません、あしからず)。これにも二廻りほど大きなものがあります。材料はフタバガキ科(ラワン材の様な)の木材だと思われます。
以上、作り方も材料も違うこれら三種の小さな食卓(膳)に共通するのは、椅子を使わず床に直に腰を下ろして、これらの食卓を自分の前に置いて食事をする事で、これらの道具が産み出されたそれぞれの国の文化や生活習慣が反映されたものになっている事、言い換えれば、そこにそれら道具類の国籍がきちんと刻されている事です。しかし国籍の違いを越えて、この三種の食卓(膳)の寸法が比較的近いものになっているのも興味深い事です。

2017年1月3日火曜日

忘れられない人 3 青木綜一さん



1961年、私が12歳(小6)の秋に初めて青木綜一さんとお会いしました。その前年(或は、その年の春かも知れません)、家事全般と私の面倒を見てくれていた一回り歳上の姉が嫁に行き、自分の勤めを持ち忙しかった母が、他に兄弟のない私を心配してか、家庭教師として青木さんを頼んでくれたのです。当時、青木さんは九州大学経済学部一年生で19歳。学生服の詰め襟の左右に、九州大学の校章と経済学専攻を示す金色のEのエンブレムが光っていたのを良く覚えています。はっきりした男らしい眉と、大きな目に黒縁の眼鏡を掛けた穏やかで優しい人でした。
その後の中学時代の三年間、週に一度、自宅で様々な科目の勉強を見てもらったのですが、母には申し訳ない事ながら、家庭教師としての青木さんの記憶は、ほとんど私にはないのです。それよりも、思春期の入り口にさしかかった少年(私)に、「西洋古典音楽」の世界の扉を少し開いて、大人の世界の一端を垣間見せ、その楽しさ美しさを教えて貰えた、その意味で文字通りの教師であり、頼りがいのある兄で、私にはありました。

いまでも、博多港近くの須崎公園の奥に建つ「福岡市民会館」で、アマチュアのエキストラ(手伝い)の楽団員が混じった、決して上手とは云い難いアンサンブルの九州交響楽団の定期演奏会で、フィンランドの作曲家 J•シベリウスの交響詩「フィンランディア」を初めて聴いた時も、博多の綱場町にあったクラシック音楽喫茶「シャコンヌ」で、それまで見た事も聴いた事もない様な大きな自作のスピーカーシステムから流れるレコード音楽に魅せられた時も、いつも青木さんが傍で一緒でした。
後年、東京で過ごした学生時代のある一日、結婚後間もない青木さんを千葉県船橋市郊外の公団住宅にお訪ねした事があります。おそらくその時が、私が直接青木さんにお目にかかった最後で、お元気なら現在七十代半ばになられる筈です。いまの私にとって、掛け替えのない楽しみ或は喜びとして、自らの内に深く根を下ろした「西洋古典音楽の世界」に親しむ手ほどきをして下さった人、青木綜一さん。その御礼を直接お目にかかって申し上げたい、初めてお目にかかって55年以上が過ぎた今、そう強く願っています。

2017年1月2日月曜日

Drew家のみんな、誕生日おめでとう!



今日、一月二日はシドニーにいる上の孫娘 沙夜 マチルダ Drewの9歳の誕生日です。3年程前、入院中の私を家族で見舞ってくれて以来会っていないので、どのくらい大きくなったのか実感が持てませんが、日本ならば小学校三年生ですから、人間として小さな女の子から少女へと成長して行く、そんな時間の入口に立っていると云う事なのでしょう。これからの時間を無事で健やかに過ごしてくれる様、離れた場所で見守っているJijiは願っています。


下の孫娘 実輪 ベアトリス Drewは昨年12月25日で7歳になりました。ひょうきんな子で、つい最近も父親と写っている写真の顔は“ひょっとこ顔”でした。舞台女優であったと云う彼女の大々叔母の血を受け継いでいるのかも知れません。


娘の“いつき”は昨年12月27日で36歳になりました。去年9月、八女催事の手伝いに帰って来てくれて、大いに助かりました。今年は沙夜を手伝いによこすと言っていますが、さてどうなりますやら。


例年、私ども夫婦二人のお腹に入る誕生日のケーキですが、今年はお店のお客様Nさんにクリスマスケーキを二つも頂戴して、つくる機会を逸し年末になりました。そのお蔭で、私どもと長男夫婦四人が味わい祝う事が出来ました。来年もまた、無事に祝う事が出来ます様に!

あけましておめでとうございます

2017年1月1日唐津 • 鏡山山頂からの眺望

皆様、明けましておめでとうございます。昨年は9月以降、毎月一ないし二回の催事および催事準備に振り回された一年でした。今年も、そう大きくは変わらない一年だと思いますが、出来ない事が多くなって行くこれからの私の時間の中で、これまで以上に何を選び何を捨てるかを大事にして、少しでも仕事で皆さんのお役に立てる様心がけて行くつもりです。今年一年もどうぞよろしくお願いいたします。

初めて、大晦日と正月一日を
家族皆で過ごした唐津の旅館

2016年12月31日土曜日

忘れられないもの 21 古道具 坂田での買い物


東京 目白にある坂田和實(さかたかずみ)氏経営の「古道具 坂田」は、従来型道具屋の決まりきった物差しによる品揃えや有り様を大きく変えた(私の独断と偏見に基づくもので客観性はありません、念の為)、と云う意味に於いて過激な(!)道具屋です。若い人達が経営する「道具屋」の形にも大きな影響を与え、後、日本のあちこちに「坂田スタイル」の道具屋が出現しました。私自身も大きな影響を受けました。更に、現役の「もの作り」の人達の中に多くの顧客を持っている事でも有名で、民藝の世界では芹沢銈介や池田三四郎などのビッグネーム、また安藤雅信や内田鋼一などの売れっ子陶芸家、建築家の中村好文や華道家の川瀬敏郎、金色のカッパの彫刻で知られる美術家の村上隆など、枚挙にいとまがありません。

千葉県長生郡に個人美術館「as it is」を持ち、ある時期は「芸術新潮」紙上に「ひとりよがりのものさし」を連載(後に単行本化)、2012年には渋谷区立松濤美術館で行われた「古道具の行き先 ー 坂田和實の四十年 ー 」展で、“選んだもの”を通して自身の仕事が紹介されるなど、まさに「古道具屋」として八面六臂の活躍ぶりです。大学が傍であった事もあり、私は四十数年前から通い始めました。


今回御紹介する十八世紀のウィンザーチェアー(高さ 九十一cm 巾 六十五cm)は、「坂田」に於ける私の最初の買い物です。前年に火事で焼け出された後、借りたアパートの部屋まで坂田さんに椅子を配達してもらった時、その椅子以外、他にほとんど家具もない部屋の様子にあきれられた覚えがあります。


次は、西アフリカ•マリ共和国ドゴン族の木の扉(高さ 百四十六cm 巾 五十六cm)です。二十五年ほど前の買い物です。今年の五月アクロス福岡で行われた書展「書 花 茶 手紙 ーあまねや工藝店と共にー」の際に出品した、同じドゴン族の梯子と同じく、具体的な暮らしに根拠を持つ造型です。彫刻家の造形する彫刻よりも、はるかに説得力のある形である様に私には見えます。

2016年12月17日土曜日

「工藝の愉しみ • 師走展」本日初日

今年最後の催事「工藝の愉しみ • 師走展」を、本日17日から25日まで開催します。11月下旬に出掛けた折、数カ所で選品したものです。ひとまず写真でご覧に入れます。準備が遅れ値札がまだです。ゆっくりとお出掛け下さい。熱い焙じ茶を用意してお待ちしています。
 
2階正面、ガラス絵のイコンや板絵付き鏡が壁に
奥に見えるのがパキスタンのチェスト
手前がエチオピアのスツール、右はキリム
韓国やインドの燭台ほか、手前左に
見えているのがルーマニアの陶製の菓子型
パキスタンのチェスト
上にルーマニアのピッチャー
キリム類
民藝や工芸関係の書籍類
白いのはホーローのお玉類
キリム三種
オールドのガベ
初見のブランケット類や天幕飾り

2016年12月5日月曜日

忘れられないもの 20 インドの染織品四種

子供服二種
婦人スカート生地
ナガ族 勇者のマント
東京•渋谷に程近い目黒区自由が丘にあって、印度やアジア諸国の染織品を中心に七千点以上に及ぶコレクションを所蔵する「岩立フォークテキスタイルミュージアム」の館長•岩立廣子(いわたてひろこ)さんに初めてお会いしたのは、かれこれ三十五•六年前の事です。岩立さんは、四十数年に及ぶ印度に関わる御自身の活動の一環として、これまでに様々な展覧会を企画実現して来られました。中でも駒場の日本民藝館を会場にして、一九八五年夏「ヴィレッジアート展 西印度砂漠地帯の暮らしと美 」と名付け催された展覧会は、若い世代の関心をも集めて、日本民藝館の企画展としては記録に残る程の入場者数となり、以降、日本民藝館入館者に若い人達が増える切っ掛けになったと聞いています。五年前、その一端を伺わせるコレクションの一部が「福岡アジア美術館」に並んだ事がありますから、ご覧になった方があるかも知れません。

当店でも一度だけですが、三十五年程前に貴重なコレクションを拝借して、展覧会と講演会を企画した事があります。その折に強く印象に残っているのは、コレクションの素晴らしさもさる事ながら、御自身で撮られた写真(スライド写真)が実に良い写真であった事と、現地で御自身が経験された話の面白さでした。四十年、八十回に及ぶ渡印で撮られた写真が三万点にも及ぶそうで、現在はそれをデジタル化する作業が進行中なのだそうです。さて、今回御紹介する染織品四点は、いずれも岩立さんが印度染織品の店「バザール岩立(後のカディ岩立)」をやっておられた二•三十年前に頒けて頂いたものです。どれも色鮮やかで美しいものです。先の二点は印度北西部ラジャスタンかグジャラートいずれかの州の子供服、次も同じ地域の婦人のスカート生地。三点共に施された刺繍が何とも素朴で可憐なもの。最後は、東部印度ナガランド州の「勇者のマント」と呼ばれる仕事で、子安貝を丸くパターン状に止め付けた美しいものです。