2010年1月10日日曜日

Oさんへの手紙から





O 様 昨日はお疲れさまでした。無事東京へお戻りになった事と思います。さて、昨夜近所の小さな洋食屋「S」でN君と夕飯を食べました。その折、N君との話の中で今回の案内状に使われている「ふだん着の」という言葉が話題になりました。貴方にもお話しした様にこの言葉自体、現在の漆器の仕事とは真っ直ぐにつながりにくいイメージを持ってはいるものの、案外これから先の漆器が目指すべき方向性を暗示する言葉なのかもしれない、と云う話になりました。
昨日、貴方が会場を後にされてしばらくしてから、何処かの会社の社長さんがお出でになり、酒器その他を数点まとめて買って下さったらしいのです。決して安くはない漆器の値段を考えれば、売れる事自体は嬉しい事であるにしても、漆器の“これから”を考えると一人の社長さんより、十人の若者に顧客になってもらわなければなりません。その為にはどうしたら良いのか、何を作れば向こう側(若い人達の暮らし)に橋が架けられるのかを、“作り手”或は“売り手”として、もっともっと考えなければならないという事なのでしょう。N君の仕事は、技術的に見れば手堅い仕事で文句なく一級品ですが、漆器につきまとうあるイメージ(しいていえば、“ふだん着”と対極の“よそゆき”)からは、未だ逃れる事が出来ていない様に思うのです。 
職人として教えられた事を、誠実にやればやるほど「日常の暮らし」から遠ざかってしまう矛盾。その解決の為には、“作り手”として私達の暮らしを読み解き、その事に対する「答え」を具体的な「もの」として、“使い手”の前に差し出すのでなければなりません。簡単ではありませんし、すぐに形になるとは思えませんが、N君は「やって見る」と言ってくれました。若い彼の意欲に期待して、待ちたいと思います。

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