2019年12月17日火曜日

「天国無尺(物差しのない仕事)」


今展出品物の一つにルーマニアの古い小振りな櫃 (W 62cm D 36cm H 31cm) があります。明らかに木工専門の職人仕事ではなく、哲学者 内山節(うちやまたかし)云う処の「多職の民」である農民の自作の品のように見えます。何故か?形になるまでの工程をたどりながら考えてみましょうか。まず用途に応じて大まかな全体の大きさを決め、手近にある材料で身と蓋の部分を作る。其々の形が出来た処で、一度合わせてみる。しかし、蓋がどうにも上手く収まらない。そこで前脚の上部外を内側に少し刳って、どうにか上手く蓋を収める。

この一見、行き当たりばったりのように見える工程の進め方を見ていると、あらかじめ各所の寸法をきちんと割り出し、それに沿って各部材を加工組立して行く、そんな専門の職人仕事にはとても見えないのです。しかし、こうして形になったこの櫃は、身の回りの何か細々しいものを収める容器、或いはひょっとして、自分の幼い娘の腰掛を兼ね、その娘の身の回りの物を入れる為に作ったものかも知れません。そんな事を考えさせる程、この小櫃は素朴で愛らしいものです。これこそ「天国無尺(天国には美醜を測る物差しがない)」の仕事の一つと言って良いと思います。

「天国無尺」。この言葉自体、何処で出会った言葉だったか確かではないので、間違っていたらお許し頂くしかありません。(記憶の中では)私の師匠の外村吉之介が、50年以上前に岡山市で行われた教職員大会か何かの記念講演で B・リーチ氏と対談(リーチさん曰く、二人で漫才やろうじゃないか)。その後、それを外村が雑誌「民藝」に書いた紹介記事に付した題名か副題であった様な気がします。その中で、子供たちが描いた絵をリーチさんが評して、「 天国には(美しいかそうでないかを測る)モノサシないんだ 」云々。私の記憶通り「言葉」が外村のものであるのならば、美しいものが生まれる消息を端的に表した、如何にも外村らしい簡潔で味わい深い言葉だと思います。

追記 ’19年12月23日 先日、木工を仕事にしている大分県宇佐在の岩橋正隆君にこの小櫃を見てもらいました。同君によれば、この小櫃は(私の言う)行き当たりばったりの仕事ではなく、一応ちゃんと収まりその他、色々な事を考えている仕事に見える、のだそうです。だとすれば、収まりの形に囚われて、この櫃を見ているこちらの(常識的な)見方に問題がありそうです。

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