2009年7月9日木曜日

忘れられない人 2  柳 悦孝 先生




          ー 24歳のMさんへ ー

倉敷民藝館・初代館長 外村吉之介先生が私に民藝の世界の扉を開いて下さった、いわば“生みの母”だとすると、これからお話しする柳悦孝(やなぎ よしたか)先生は、私にとって“厳しい父”の様な存在でした。今日はその話をいたしましょう。民藝の世界に御縁が出来て、2年目の1973年。私は駒場の民藝館で毎年秋に行われる“日本民藝館展”の手伝いや、民藝に関する研究会で若い人が大勢参加していた
“無名会”(むめいかい)に出入りするようになっていました。

その年の春頃の事です。私が書いたアジビラ“閉ざされた地平を拓くのは!”(その時は至極まじめに考えて書いたつもりですが、いま見るとタイトルからして力みかえった恥ずかしい様なタイトルです)を見て、T君とY君の二人が無名会の例会にやって来ました。
さしずめ、あんな生意気な事を書いた奴の顔でも見てやろう位の気持ちだったかもしれません。両君とほぼ同い年であった事も手伝って、無名会とは別に二人との付き合いが始まります。
当時、私のまわりにいた若い人達は大半が作り手か、あるいは物作りの勉強に携わっている人達で自然、私の中にも具体的に物を作る事に対する憧れが芽生えてきました。その当時T君は織物、Y君は焼物を手掛けており、学生であった私から見ると、考える事また生活する事の中心に具体的な“物を作る事”が据えられていて、言葉だけに頼って表現しようとしている自分にくらべると、確実で大きな説得力を他人に対して持つように見え、羨ましくて仕方がなかったのです。
考えてみれば、私の師匠の外村先生も30歳を過ぎて織物の世界に入り、作家として一時代を築いた人でもあり、「織物だったら私にも出来るかもしれない!」と思ったのです。(何という傲慢!この時点で、すでに躓きが約束されていたようなものです)

その年の秋、Y君の口利きもあって彼の父上である柳先生の工房で織物の手ほどきをして頂ける事になり、勇んで仙川の工房に出掛けました。ちなみに、柳悦孝先生は柳宗悦の甥にあたる方で、女子美術大学の学長を務めたり、良い織り手を何人も育てた方です。後年おつきあいする事になる盛岡・蟻川工房の蟻川紘直さんも、’60年代に先生の内弟子として工房に在籍しています。その当時、先生の工房には、MさんとSさんそして京都の道具屋さんの息女であるOさんの3人の女性が仕事をしていました。藍で染めたガラ紡の糸を小管に巻くところから始め、綜絖通しに至るまで、先生から丁寧に教えて頂きました。
学業の合間に仙川の工房に通い始めて3ヶ月ほど経ったある日の事。柳先生に呼ばれて工房に伺うと、次のように話が始まりました。
「人は誰でも仕事をしている内には、必ず壁にぶつかる事があるものだ。そんな時、手の仕事を生業に出来る人は、その壁を手を動かしながら乗り越えて行く事が出来る。しかし、君を見ているとその壁の前で立ち止まって考えるタイプの様だから、織物を仕事にするのは止めた方が良いだろう。」こう申し渡された私の失望と落胆の大きかった事は、皆さんご推察の通りです。

しかしながら、こう言われてすぐに諦めてしまう事自体、私の中に“織物”を一生の仕事にしたいという強い気持ちがなかった証拠です。
何をするにせよ、人は或る処まではどんな事でも出来るものだと思います。(大工仕事であれ、織物であれ、あるいはリコーダー演奏であれ、例えが非常に変ですが)ただ、それを一生自分の仕事として引き受けるとなると、また話が別です。飽きたからと言って止める訳にも行きませんし、飽きずにその“何か”を続ける事自体が一つの才能かもしれません。そう考えれば柳先生が仰るように、誰にとっても或る仕事について、“向き不向き”があるのは理解出来ます。
とは云うものの、私の場合しばらくそこから立ち直れませんでした。
しかし、この時先生にこう申し渡されて、作り手を断念した事が今の私につながる訳ですから、柳先生が“あまねや工藝店”の一方の生みの親である事は間違いありません。
後に仕事を始めて物つくりの人を傍で見ていると、物作りを自分の生業にしなくて良かったとつくづく思いました。24歳の時の事です。
柳悦孝先生、本当に有難うございました。

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