2009年7月15日水曜日

民藝館の陳列について




’72年の春、初めて倉敷民藝館の陳列を見て私が驚いたのは、其処にある品物の大半が裸で、しかも生き生きと並べられている事でした。一般的な博物館などで、それまで見ていたガラス越しの展示にくらべると、それがひどく新鮮に見えて、その事を外村先生にお話ししましたら、たいそう喜んで下さいました。たしか、「物は風に吹かれるくらいが丁度いいんだ」と仰った様に思います。さて、手元にある月刊「民藝」の’74年4月号に、私が最初に先生の陳列替えのお手伝いをした時の、懐かしい写真が載せられています。囲炉裡を切った大広間から階段を上った部屋に作られた、奥行きほぼ1間、間口が2間位の
“のぞき”の展示は忘れられません。左の隅に、KAKI工房の松材の白々と美しい飾り棚が据えられ、その棚には彩りも美しくメキシコやイタリヤの吹きガラスが並びます。中央にはグアテマラの彩色した櫃、スペインの緑釉の大蓋物、メキシコの黄色い楕円皿、奥の壁際にスペインの7本の腕を持つ鉄の燭台が据えられていて、その腕の一つ一つに色とりどりのちびた蝋燭まで差してあるのです。展示の目処がついた後、“のぞき”の横の入り口を開けて「(この展示)匂いまで付いているんだよ」(スペインの鉄の燭台に差された蝋燭が何とも云えない好い匂いがして、当時の私には其れが西洋そのものの匂いに思えました)、こう仰った先生の嬉しそうなお顔も目に浮かんできます。

さて、倉敷民藝館・臨時職員時代のたぶん1年目の夏であったと思いますが、かつて倉敷民藝館に御奉職でその当時、大阪日本民藝館の主事をなさっていた鈴木尚夫さんが夫人と御二人で来倉され、私にも声をかけて下さいました。それが御縁になって、その後大阪日本民藝館の陳列替えに呼んで頂けるようになりました。大阪では、鈴木さんと御友人で松江の御茶人(正確ではありませんが、ひとまずこう呼んでおきます)金津滋さんのお二人が中心になり、京都で織物をしておられた小谷次男さん(主に展示に必要な道具や、仕掛け類のご担当。柳悦孝先生の御弟子だった人です)などの他、私のように呼ばれた若い手伝い2・3人で、数日掛けて展示します。大阪日本民藝館が素晴らしいのは、なんと言っても第1室の長い“のぞき”で、丁度絵巻物を次々に拡げて見ていくような楽しさがあります。いつだったか、そこに沖縄の染織品が並んだ時などは、まるでガラス越しに南国の海の底をのぞいているような楽しさがあって、私には忘れられない展示のひとつです。大阪の楽しみは展示が終わった後の食事です。鈴木さんの御自宅に呼んで頂いて、奥様の美しく美味しいお料理に感激した事や浜田庄司の7寸皿、倉敷堤窯の素晴らしい湯呑み等々、それまで見た事もない焼物を直に使った家庭料理に接したのも、初めての経験でした。

こんな経験を重ねながら各地の民藝館を見ていくと、それぞれの民藝館で陳列の具合(持ち味の様なもの)が違う事、また民藝館と名乗っていてもひどい展示もある事など色々な事がわかって来ました。公の民藝館とは言いながら、それを慈しみ育てて来た人が亡くなれば大きく様変わりする事は避けられません。その意味で、民藝館もまた“個人の表現”と言っても良い気がします。倉敷、熊本、松本、富山などの民藝館を長い時間の中で拝見していて、特にそう感じます。“民藝”の名を冠した施設であれば、それを通して“民藝”の何たるかを人に知らせる場所として、大きな責任が伴うのは言うまでもありません。月刊「民藝」掲載の少なからぬ諸施設の内、その責任の自覚をどれほどの所が持っておいでなのか、率直に聞いてみたい気が今しています。そして、民藝館にとって陳列が大事なものである事が自明の事だとすれば、感覚的なそれを、伝え易い一つの文法あるいは技術の様なものに還元し、後に繋げていく為「いま何をすべきなのか」を、関わりのある者すべてが自分の問題として考える必要があると思っています。

写真は、上から倉敷、大阪、松本の民藝館の陳列の様子。古い月刊「民藝」の写真をカメラで写したものです。見難いのはご容赦下さい。

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