2009年3月11日水曜日

忘れられない人 1 寒風春木窯・沖塩 明樹さん



倉敷民藝館 初代館長・外村吉之介先生がその著書「喜びの美 亡びの美」の中で、窯の名を「詩の題の様な」と評された寒風春木窯(さぶかぜはるきがま)・故 沖塩明樹(おきしおはるき)さんの、焼物の仕事を福岡で皆さんに見て頂いたのは’94年・12月の事でした。沖塩さんが、倉敷・酒津地区から岡山の寒風に窯を移されて10年ほど後の事です。
当時、5室ほどの大きな登り窯を使い、お弟子二人と沖塩さん御自身とで、春と秋の2回窯に火を入れておられました。焼き上がったものは地元の民芸店をはじめ決まったお店に納められて、ほとんど残らなかったと聞いています。’72年に初めて私が「倉敷民藝館」でアルバイトを始めた頃、沖塩さんの焼物は地元で評価も高く、既に充分に有名でした。その事も手伝って、’79年に「あまねや工藝店」を始めた時に品物を置いて頂くよう、お願い出来なかったのです。(なんと気の弱い事!)それから10年ほど後の旅の途次、なじみの倉敷の陶器屋さんで寒風春木窯の湯呑みを見つけて家族分を購入。それらを見ている内に堪らなくなって倉敷民藝館に引き返し、民藝館のMさんに沖塩さんへの紹介を御願いして、車で寒風へ。(すでに充分厚かましくなっていました)自己紹介をした後、突然お訪ねするに至ったいきさつやら、私自身が沖塩さんの仕事をどう見ているか等々を、一生懸命お話ししました。そうこうする内に日が暮れて、「泊まって行きなさい」と云う事になり、沖塩さんとの御付き合いが始まりました。
寒風春木窯では、師匠(つまり沖塩さん)が作った見本100種類くらいの品物(主に食器)を、弟子が繰り返して数を作る事で単価を安くおさえ、作った物を何番の窯の何処に置くと云う処まできちんとデータを取って、仕事が進められて行きます。その際、師匠と弟子の技術上の力の差が、作品に反映されにくい様、技法上も形の上からも様々な工夫が凝らされているのです。技法で云えば、掛け分け、しのぎ、いっちん、など個人差が出にくい技法を採用し、また具体的な形の面では湯呑みの高台の削りを技術的に難度の高いものにせず、清潔な高台にしている処などです。ところで、最初に泊めて頂いた時だったかどうか覚えていませんが、福岡でぜひ「寒風春木窯」の展観をやって頂くようお願いをし、引き受けて頂いた事があります。それが沖塩さんにとって、大きな負担であった事を終わって聞かされ、愕然とした事も有りました。それは先にお話ししました様に、年に2回の窯出しで焼かれたものは出荷すれば、ほぼ全量が現金に変わります。ところが会の約束をすると、毎窯その会の為(福岡の場合、およそ1000点)に品物を少しずつでも取っておかなければならず、お金に換わらない分お弟子への給料等の経費が払えないのです。福岡での会の為に、沖塩さんは定期預金をひとつ取り崩されたと云う事を知りました。申し訳ない事でした。
生前、直接お尋ねする機会は逸しましたが、作り手としての技術もまた形に対するセンスも人並み以上の沖塩さんが、自分の仕事のすすめ方を決めるにあたって、大きく影響を与えた決定的な出来事があったに違いないと私は思っています。それは1960年に創業した倉敷・堤窯の武内晴二郎氏の元で数年、先の大戦で隻腕になった同氏の、文字どおり右腕として数もののロクロを挽いた、その事です。自らの表現として型の仕事に活路を見出し、スリップウェアーや練り上げの仕事で多くの美しい仕事を残した人。「眼で創る」と云われたほど美しいものを良く理解し、意欲も才能も人並み以上であった氏の下で、数年ともに仕事をして以来、沖塩さんには御自分の才能の限界とでも云ったものが見えてしまったのではないのでしょうか。そこには沖塩さんのいわば「潔い断念」があったのです。その決断が、後の「倉敷みなと窯」或は「寒風春木窯」の良質の食器の仕事に結実した事を考えると、私ども皆にとって、まことに尊い御決断だったと云わなければなりません。沖塩さん有難うございました。

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