2018年12月24日月曜日

忘れられないもの46 語り手としての多々納弘光


1973年8月、「民藝の真意による 美の王国の待望」というスローガンを掲げて、一般的に誤解の多い「民藝」と言う言葉の内容や思想の理解を助け深める為、社会への働きかけの一助として、倉敷民藝館初代館長•外村吉之介(とのむらきちのすけ)の唱導によって始められたのが「日本民藝青年夏期学校」(後の日本民藝夏期学校)です。’73年の第1回伊予西条から’98年の第100回東京駒場まで、25年間に渡って行われた(仮に第一期と呼ぶ)第一期の「日本民藝青年夏期学校」(以後も継続中)で講義を担当した外村を始め、濱田庄司(はまだしょうじ 陶芸家、柳宗悦没後の第二代日本民藝館館長)や柳悦孝(やなぎよしたか 柳宗悦の甥で染織家、女子美術大学学長を務めた)、また柳宗理(やなぎむねみち 柳宗悦の長男で工業デザイナー、第三代日本民藝館館長)など民藝の世界に於ける高名な講師陣の中に混じって、出西窯陶工 多々納弘光(たたのひろみつ)の名も見えます。

’78年倉敷会場の「陶技と美」に始まり、’98年鳥取会場の「璋也先生と出西窯」まで、合わせて12回の講義を行った多々納弘光によって、’86年第57回の長崎会場から語り始められたのが「出西窯の仕事」です。(「日本民藝夏期学校 • 100回の記録」東京民藝協会1998年9月1日発行 福本稔 編 )これは、戦後間もない1947年、当時19歳•20歳の農家の次男や三男であった五人の青年の合力(ごうりき)によって始められた「出西窯」の発端となる幾つかの出来事(1945年8月、弘光青年が遊学先の長崎から、病を得て帰郷する同郷の親友に付き添って出雲に帰った直後、長崎に原爆が投下され多くの学友•教師が死亡、自身は生き残った事。また戦後、生き方を模索している折に河合栄治郎著「自由主義の擁護」に出合い、共同体による農村工業創始を志した事など)、そして不思議な縁(松江在、四歳年長の金津滋かなつしげるを通して柳宗悦著「私の念願」を知り、河井寛次郎を紹介される)によって出会う事になった「民藝」の世界、そして河井•濱田を始めとする民藝の世界の巨匠や山本空外(やまもとくうがい)上人と出西窯との出会い、などが同氏自身の日記や手紙等の資料を基にして、二時間程の語りの中に凝縮された見事な構成の講義です。

1997年、出西窯創業50年に当たるこの年の12月から翌’98年12月まで。おおよそふた月に一回、六回に渡り多々納弘光自身を語り手として実現したのが、この「出西窯の仕事」の人物編とでも云うべき「多々納弘光連続講演会」です。


多々納さん仰る処のお師匠様方、河井寛次郎、濱田庄司、バーナード•リーチ、吉田璋也、各氏にそれぞれ一回ずつが当てられ、村岡景夫、外村吉之介と柳宗悦、山本空外の四氏は二人で一回。こんな構成の講義の進め方で、平均して毎回二十人程の人達を前に、それぞれの方に縁(ゆかり)の品を持参し熱心に話をして下さいました。会場は、福岡の中心部天神にほど近い、若宮神社の奥に建つ今泉会館で、会場の四十畳程の大広間に、3×6のベニヤ板2枚を合わせ屏風状に仕立てたもの二組を用意して背景として使い、それに毎回様々な生地を掛け、テーブルを用意して講演の舞台を作りました。主な聴き手は、初代の福岡民藝協会会長 故野間吉夫氏の夫人フキさんから小石原焼や小代焼の作り手の皆さん、そして当店のお客樣方に至るまで多様な人達が参加して下さいました。

第一回の「河井寛次郎」篇では、河井が初めて出西窯を訪ねる折、出雲市郊外の大津で漁師が使う瓦器の手焙り「釣鐘火鉢」を発見し、作り手の老陶工に敬意と喜びを持って語りかける場面でその「釣鐘火鉢」が登場するなど、多々納さん自身の語りに加え、これら具体的な品を使う工夫によって、どの回の講演も聞く人に強い印象を残しました。後年、知人の一人がテープ起しをしてくれた活字を目で追うだけでも、熱のこもった語り口が目の前に蘇って来る様です。六回の講演のうち大半は新幹線や飛行機を使った日帰りで、講演の謝礼も「年金を頂ける様になったから」と仰って、受け取って頂けませんでした。

また途中、講演会の聴き手がひどく少なくなった時も、「(たとえ、聴き手が)あなた一人になっても話しにくるから」と仰って下さり、後に続く人達に自分の経験した事をどうしてでも伝える、そんな気概を感じて励まされた事もあります。講演の模様はビデオテープ六本に残し、それをDVDに焼き直してもらったものが、現在も私の手元にあります。若干見にくい処はありますが、同氏の熱のこもった語り口は感じ取って頂ける筈です。この講演記録を皆さんに見て頂ける様な機会を、この先出来るだけ沢山作り、2017年年6月末に亡くなった多々納さんの御遺志に応(こた)えたいと思っています。

2018年12月22日土曜日

第2回「百冬の会」開催中

会場正面から中央の舞台
催事の面で穴あきだらけであった今年も、なんとか師走迄たどり着く事が出来てホッとしています。さて、昨年師走に開催して好評であった「百冬の会」を、今年も年末から年明けに掛けて開催いたします。これは自宅の片付けに伴って、思いがけず押入や箪笥から姿を現した色々な品を皆様方にお目にかける企画です。それに併せて昨年好評だった、当店の古いお客様 Fさんの「岩井窯•山本教行」作品のコレクション第2弾、食器諸作およそ百点を並べ販売いたします。
[ 前期 ] ’18年12月19日(水)から29日(土)まで。会期中の月曜日24日は休み。[ 後期 } ’19年1月5日(土)から13日(日)まで。会期中月曜日7日は休み。
山本作品の大壺
正面壁に山本作品の硝子絵や陶額
さて2019年は、1979年にあまねや工藝店を中央区今泉に開店してから40年目を迎えます。1月下旬の「原陽子個展」から始まり、3月初めの木村葉子•斉藤ひさ子二人による「Funny Figure 展」、3月下旬から4月初めに掛けて久し振りの「Mon sakata 展」、4月下旬から5月初旬に掛けて2回目の「喜びのたね命のかて展」、5月下旬久し振りのアイルランドの画家「D•クイン個展」。後半になると、9月から10月に掛け八女と福岡で、これまで染色ユニット natsumichi の一人として皆様にご覧頂いていた「大木夏子個展」、11月は「松形恭知作陶展」など、他にもお愉しみ頂ける企画を準備しています。皆様のお出掛けをお待ち申し上げます。それでは、皆様どうぞ良いお年をお迎え下さい。

2018年12月3日月曜日

忘れられないもの45 健やかな道具 3

フィリピンの肩掛け籠三種と食籠
フィリピンの平籠

「健やかな道具」3回目は、竹や籐あるいは木を使って造形された様々な道具類をご紹介します。まず最初は、籐や竹を素材に作られたフィリピンの肩掛け籠三種(縦18cm~32cm 横22cm~32cm 巾7cm~12cm)に、竹と籐で造形された平たい食籠(じきろう)(縦22cm 横23cm 高11cm)、そして大きく深めの籐の平籠(径55cm 高24cm)です。
実用的な編組品として見るこれら籠類は、用途の上からもまた造形的にも、瑕疵(かし)のない実(まこと)に申し分のない仕事に見えます。
同じ編組品でも、日本の伝統工芸系の仕事に接して時に感じる、ある「息苦しさ」の様なものは微塵もなく、用に徹した仕事のみが持つ風通しの良い仕事になっています。

パミレケ族の筬とトルコの機道具

次は、アフリカ•カメルーンのパミレケ族が、細巾の木綿布を織る時に使う水平機(すいへいばた)で使う筬(おさ)(縦17,5cm 横17cm)です。丸く
造形された方を下にして上から吊るし、それ自体の重さを生かして緯糸(よこいと)を打ち込む時に使います。その隣りは、トルコで作られる毛織りの敷物キリムの、同じく緯糸を打ち込む道具(縦32cm 横11cm 
厚1cm~3cm)です。持ち手から刃先まで継ぎ手を使わない一木(いちぼく)の作りです。いずれも物を産み出す道具として用途に仕える品でありながら、いや、むしろ仕える品であるからこそ、特にパミレケの筬は、アフリカならではの豊かで美しい造形になっています。

木版更紗布版木三種

その次は、インドの木版更紗布を制作する時に使われる版木三種(平均 縦9,5cm 横12,5cm)です。一木で作られたものもあれば、本体上部に溝を彫りそこに持ち手を差し込んで留め付けたものなど、様々な作りのものがあります。堅木(かたぎ)に彫られた模様の一部が欠けると、実用の道具としては御用済みになる訳ですが、それ迄にどの位の数の更紗布が染められたものでしょうか、見当もつきません。これも造形としては陰の立役者の様な物で、これ自体が造形として表舞台に立つ事はない品ですが、こうして改めて見直しても充分に美しい造形です。

李朝の菓子型

最後は隣国の韓国•李朝時代の菓子型(縦 36cm 横 6cm 厚 約3cm)です。日本にも同様に桜など堅木に彫られた見事な菓子型がありますが、
それら日本の仕事と比べると、いかにも長閑(のど)やかな持ち味の造形が李朝の陶磁器類の持つ印象とも重なって、ここにもまた或る時代と文化を反映した健やかで美しい道具を見出す事が出来ます。              

2018年12月1日土曜日

忘れられないもの44 健やかな道具 2


「健やかな道具」2回目の今回は、大きなもので尺五寸、小さなものでも九寸程の皿4種です。一番大きな白釉の皿は、20年近く前、東京•西新宿のコンランショップで手に入れたもので、イタリア製の型ものです。この皿に上絵付けをし絵皿として飾るカンバス替わりの無地の皿で、これより小さな九寸位の皿もあります。最初に買った大皿は、自身買い物自慢でもしたかったのか、何かの折に山本教行さんにお目に掛けたら大喜びされてしまい、そのまま差し上げてしまいました。次に上京した時にもう一枚買い、勇んで持ち帰る途中(何しろ大きいので)、JR新宿駅の地下改札口へ下る途中の階段の角にぶつけて、凄い音と共に木っ端みじんに。その後、同じ処を訪ねても手に入らず諦めていました。それからずいぶん時間が経って、仕事で岩井窯をお訪ねした時にその話をしましたら、同じ皿が手元に2枚あるからと、この一枚を山本さんから頂戴したのです。


次は、トルコの仕事で、銅に錫メッキを施した金属製の皿です。これも白釉皿と同じく、皿の縁が広い形をしています。或るイタリア料理店で、この形の磁器の皿にパスタが盛られて出て来た事がありますし、旧拙蔵の十六世紀オランダ•デルフトの白釉皿も同じ様な形状の皿でしたから、西欧世界では縁の広い形状の皿はさほど珍しいものではないのでしょう。


三番目の皿は、2006年浦和の柳沢画廊で行った「抽象紋の皿100展」の折、小鹿田の坂本工によって造形された尺一寸の皿100枚の内の1枚です。皿の内側に白釉が打ち掛けられたこの1枚、(知る限りに於いて)それまでの小鹿田焼の仕事に、らっきょう壷や雲助•水甕等の肩に釉を打ち掛けた仕事はあっても、皿の内側に同じ様に釉が掛けられたものはない(坂本工 談)との事で、立派な新作の一枚という訳です。


最後は、山陰(おそらくは石見辺り)の仕事で、緑釉が皿の内側に意図や躊躇いの跡を見せず、大胆に打ち掛けられた尺一寸あまりの皿で、雑用品としては申し分のない仕事です。

2018年11月26日月曜日

「工藝の愉しみ’18秋 展」もうしばらく

2年振りの「工藝の愉しみ」も、残すところ後1週間。きちんとしたご紹介をせぬままでしたので、会場の模様だけでもお知らせします。

2階会場正面
2階会場左側
2階会場右側
2階踊り場
1階のぞき
1階踊り場から吹き抜け壁
吹き抜け壁を見下ろす

2018年11月18日日曜日

「工藝の愉しみ ’18 秋 展」のお知らせ

エクアドルの皮絵

「工藝の愉しみ ’18 秋展」のお知らせです。作11月17日(土)から12月2日(日)間での間、2年振りになります「工藝の愉しみ」展を開催いたします。以下、会場の様子と案内状の文章原稿です。11月15日(木)が私がお世話になった倉敷民藝館の開館70周年の記念日にあたり、記念講演会と祝賀行事出席のため倉敷に出掛け、今展の準備作業が遅くなりました。ごゆるりとお出まし下さい。なお会期中の月曜日11月19日と26日はお休みいたします。

アフガンの古鉢他
インドやインドネシア、パキスタン等の布製品
キリムのクッション等

10月初旬、2年振りに上京してあちこち廻りました。来春の催事準備と、日本民藝館を始め幾つかの美術館を廻ったり、旧友との再会を楽しんだり(もちろん仕事も)して、一週間程の愉しい時間を過ごしました。今回の、久し振りに開催する「工藝の愉しみ 秋展」は、その時に集めた品々を皆様方に見て頂こうと企画するものです。久し振りに入荷したアフガンの古鉢やルーマニアの調子の良い大振りの水差し、インドの毛織物など、見て頂くものが沢山あります。どうぞお出掛けの上ご覧下さい。

2018年10月22日月曜日

 忘れられないもの43 健やかな道具 1


私達が日々の暮らしで使う道具類は、時代の移り行きと共に使われなくなるものがあるかと思えば、新しく産まれ登場するものもあり様々です。これら暮らしの道具類に共通するのは、そこにいつもあって、私達の暮らしを支え助けるものであるという事です。
倉敷民藝館初代館長外村吉之介(とのむらきちのすけ)は、自著「少年民藝館」(1984年 用美社刊)の「まえがき」の中で、「見せかけの、形も色も悪い道具類を毎日使っていると、心まで粗末な人になってしまいます。(中略)形も色も良く、たよりになる健康な美しい道具をえらびたいものです。」と述べ、私達の身近にあって、日々の暮らしに交わる道具をよく選ぶ事の大切さを説いています。これからの数回、そんな日常の健やかな道具類を紹介します。


最初は水など液体を入れる道具、水差しです。左の背が高い素焼きのもの(径9cm 高38cm)はトルコ北部の黒海沿岸に近い地方で使われて来たもので、その長く激しい労働を物語る様に、底部には擦れて出来た穴が開いています。腰回りの逞しさに比べ注ぎ口は小さく、全体の形状は中国唐代の鶏冠壺を思わせるものがあります。隣はルーマニアの仕事(径10cm 高15cm)で形に古格があり、ヨーロッパ中世のジョッキや水差しを見る様です。表には特色のある化粧が施され、廻しかけられた緑釉が効果的で美しく、手に取ると驚くほど軽いものです。


次のビルマの朱の盆上に並んでいるのは、オランダ、日本、韓国、インド、イギリスなどのピューター(錫と鉛の合金)や真鍮、そして銅に錫メッキしたものや銀器まで、様々な地域時代の金属製のスプーン類(10cm~21cm)。


フィリピンの黒い板の上に並ぶ品は木製のスプーン類(11cm~30cm)で、左端の朱で先が尖ったものは台湾、その下に並ぶのがインドネシアのココ椰子の殻で作ったもの、隣りの二本と右端のものはフィリピン、その隣の白木に焼いた模様を付けた三本がアフリカです。


最後は湯を沸かす道具で、左端は朝鮮族(?)の鉄瓶、真ん中はネパールの銅の薬缶、右端はインドの真鍮の薬缶、いずれも(径 高さ共20cm前後)店や自宅で使っているものです。

2018年9月23日日曜日

「喜びのたね命のかて展」始まりました。

ボンベイのアパート
マット装の更紗布と絞り布

昨22日、「喜びのたね命のかて展」が始まりました。1986年「用美社」刊の「旅の歓び」の原画20点と工藝関係の書籍などを並べて、見て頂く催しです。原画のうち、5点を額装し、その内3点はマットも大きいサイズに改めて、バランスが良くなりました。
昨日は定時15分前に店にたどり着いたら、シャッターの前に顔なじみの岡山のOさんが待っていらっしゃいました。人が並ぶ(たとえ一人でも)のは、まことに久し振りでもあり、大変嬉しくなりました。ただその後が大騒動で、ザックに入れた筈の店の鍵が見つからないのです。店に来る前(昨日は電車でした)、昼飯用に買い物をしたスーパーで、店に到着後、鍵を開ける際にザックを降ろさずに済む様、わざわざ鍵用袋から出しカウンターに置いたまま忘れているのです。思い出し、急いで戻って事なきを得ましたが、冷や汗三斗でした。

階段下から二階踊り場に掛けて

さて、今展の「もの並べ」はご覧頂く様に、なかなか見応えのあるものになりました。書籍類も、珍しいものから買って頂き易い値段のものまで沢山あります。特に、柳宗悦関係の書籍は、出版年度の古いもの、そして多くは芹沢銈介の切り文字を使った美しいものが多いのです。勿論、薮庭の花も入りました。

「水上の宮殿」と「ポストと老人」
「手相見(ボンベイ)」と「タイトル文字」
「西瓜のある静物」
「鳥かごを持つ男」と「行人」
書籍類

2018年9月10日月曜日

「喜びのたね 命のかて」 展のご案内


この10年近く、「秋分の日」をはさんで八女の福島八幡秋祭りの時期に合わせて、「高橋宏家」「同家土蔵」等で開催して来た催事を、今年はお休みいたします。来年はまた八女で皆さんにお会い出来る様に念じながら、より一層愉しい催事が出来る様に計画中です。その代わり、平尾の店の2階で前期が9月22日から30日迄、後期が10月13日から21日迄の二期に分けて「喜びのたね命のかて」展と題し、柚木沙弥郎作「旅の歓び」の原画と工藝関係の書籍を集めた会を開催します。出品作や書籍類の詳細は、後日ご案内いたします。


「話しの種」「飯の種」等の様に、「何々の種」と言う言い方の「種」とは、大方、材料とか手立てという意味合いで使われている言葉です。今展のタイトル名「喜びのたね 命のかて 展」は、あまり聞き慣れない、その意味で、いかにも未消化な言葉です。いわば、思いつきに近い言葉を、改めて皆さんに言葉を使って説明する事自体に無理があるのです。かといって、即物的に中味を説明する言葉を並べてタイトルにするのも、気に入りません。しいて言えば、自分が何を仕事の拠りどころにし支えにして、毎日を過ごしているか、これを皆さん方に見て頂く、そんな展観です。柚木沙弥郎という染色家は、若い頃から私の憧れの染色家で、驚くべき事に95歳を過ぎた今でもお元気で、現役の作り手です。その柚木さん60代半ば頃のお仕事の一つが、’86年に「用美社」から刊行された「旅の歓び」で、今回出品の原画は型染めの仕事の前の、一つの手掛かりとして描かれた編集用の原画です。今回それをマット装にし、工芸関係の書籍ともども皆さんに見て頂く事を思い立ちました。写真の書籍類タイトルの切り文字は柚木沙弥郎の師匠の芹沢銈介の手になるものです。小さい展観ですが、師弟競演になる訳です。どうぞ、お出掛けの上ご覧下さい。

2018年9月3日月曜日

忘れられないもの 42 佐々木志年の料理

E • ヒューズ作 黒釉スリップの大皿に手まり寿司

仕事を始め、過ぎて来た40年の時間の中で、私にとって「味覚の世界」の恩人を3人挙げよと云われたら、珈琲の世界の森光宗男(もりきつむねお)(故人)を番外として、まず、見田盛夫(みたもりお)、本名、菅原皙(すがわらてらす)(故人)。フランス料理の評論の世界で「味覚」と云う感覚的な世界に、著書や料理人との対話を通して「言葉」を与え、フランス料理の世界に大きな貢献をした人。学生時代からの知人で、仕事を始めてからは色々なものを買う事で私を助けてくれた人。その点でも恩人です。

次に、吉富等( よしとみひとし)。煮切った醤油数種を使う「江戸前」の寿司が基本ですが、烏賊(いか)に雲丹(うに)、鱧(はも)に梅肉を合わせたり、冬であれば唐津近海産の小粒の牡蠣を使ったり、また茗荷や赤蕪などの野菜を寿司種に使う等の工夫で、美味しい寿司を食べさせてくれます。ほぼ同じ時期(’79年5月)に仕事を始め、一人で寿司屋など入った事がなかった私に、一人で寿司をつまみ酒を飲む、楽しみを教えてくれた人。突き出しに「白子」(何のものだかは失念)が出て来て、口に入れるととろける様で、つい、銚子を一本注文してしまったりした事もありました。

手まり寿司の乗る自作の大皿を持つ
エドワード、嬉しそうに見えます
奥に、佐々木志年と奥さんの静子さん

最後が、佐々木志年(ささきしとし)。知り合った時は20歳で10歳近く年下ですが、感覚的に早熟で、絵や書も達者。仕事の、料理で使う道具(器)類に筋の通った品を多く蒐めていて、驚かされました。
あまねや工藝店を始めて数年経ち、個人作家の会などをやる様になってからは、その作り手の器に自分の持ち物である、古い時代の器類を交えて、味ばかりでなく見た目に美しい料理の数々で、参加した皆を喜ばせてくれました。私の「日常」の世界や「食卓」の味の物差しを作ってくれた人と言って良いでしょう。加えて「食事会」の時、細君が下拵えや配膳の手伝いという形で、具体的に佐々木志年の仕事に関わり始めてからと云うもの、我家の家庭料理の味を大きく変える切っ掛けを作ってくれた人でもあり、感謝しています。

「見田盛夫講演会」の折の会食時、
山本教行作瑠璃釉楕円大鉢に乗る
おにぎり二種と炊いたもの二種

小さい時から包丁を握る事は好きだった様で、小学校3年生の頃から病身の母親に代わって食事を作っていたと、本人から聞いた事が有ります。中学卒業後、市内の調理専門学校を経て、京都の「十二段家」で修行。その後、長崎の卓袱(しっぽく)料理を学ぶなどして独立。知り合って数年後、警固の筑紫女学園の近くに一軒家を借りて料理屋
「くらわんか」を始めています。その後、紆余曲折があって、もう一軒「料理屋」を作り、つぶして、「出張料理」という後年のスタイルで仕事を始め、手伝いの人にも恵まれて、ようやく安定した仕事が出来る様になっています。

鈴木照雄作の打掛け大皿のすずき

特に’90年以降、当店でも様々な人の「個展」開催の折に、二階を使って一席十二人で席を設け、常に満席と云う人気振りでした。佐々木志年が関わる様になった当店最初の催事は、1985年12月の第一回「出西窯の仕事展 <花を挿し菓子を盛る>」からで、この時は水差しを始め種々の器に花を入れ、色々な種類の菓子を出西窯の皿や鉢に案配よく盛り込んでくれました。本来の懐石料理の形で、料理を出す様になったのは山本教行さんの会からで、何を出してくれたやら全く覚えていませんが、自筆の「おしながき」に十二•三品が書き出され、催事によっては、部屋に軸を下げたり季節の花を入れる等の設えを終えた後、春であれば、塩漬けの桜の花を白湯(さゆ)に浮かべた桜湯から始まって、3時間位の時間の中で、向づけ、お造り、椀もの、
焼きもの、鉢もの、など様々な料理が出て来て、最後は季節の果物や菓子にお薄で締めくくる趣向になっています。ここで、’87年4月
29日の日付入「料理会」の「しながき」をご紹介してみましょう。

佐々木志年所有の金彩ガラス鉢

初かつお と題して、向づけ/ 赤貝 鮑 和布 菜の花 わさび 椀もの/ 飛竜頭 中国菜 きのめ 焼きもの/ 小鮎 よもぎ天ぷら 煮もの/ 筍 蕗 すけそうの子 きのめ 鉢もの/ かつを叩き芽しそ 穂じそ 針生姜 葱 防風 和えもの/ 蕨の白和え 筍の木の芽和え さより胡瓜の酢の
もの 御飯/ 青豆ごはん かうのもの/ 筍姫皮 蕗の葉 菜の花漬け 果物/ いちご 菓子/ 蓬もち 桜もち わらび餅 以上。
いまだに、献立の組み立てが新鮮で美味しそうです。
 
鈴木照雄作片口に清末の色絵のレンゲが並ぶ

これまでに、こんな形の「食事会」を催したのは、山本教行(やまもと
のりゆき)、柴田雅章、鈴木照雄、出西窯、沖塩明樹(おきしおはるき)、
エドワード•ヒューズ、ジョン•グラハム、高田青治、見田盛夫、山本まつよの諸氏が関係する催事の時で、外村先生にも山本教行作の楕円大鉢に盛り込んだ60ヶのコロッケをお出しして、喜んで頂いた事があります。私自身(ホストとして)、それらの席に連なるのが仕事の範疇でもあり、毎回12人の内の一人として、十二分に眼と口の幸せを味わった事を今も感謝しています。