1964年に石井桃子・松岡亨子・バージニア・リー・バートンなどの諸氏と始められた「子ども文庫の会」(諸般の事情でその後、山本さんお一人で継続)と、1980年4月の創刊以来、年4回の発行を続けている「子どもと本」の創設者、そしてフィリピンの染織品や編組品を日本に招来・紹介する「ナヨン」の主宰者でもあった山本まつよさんが、本年11月27日にお亡くなりになりました。享年98歳でした。先月18日から24日までの在京中に二度お見舞いに伺ったのが、今生最後のお別れになりました。
来年1月発行予定の「子どもと本」168号は、その山本まつよさんの「追悼号」として編集・発行の予定で、「子ども文庫の会」代表の青木祥子さんに依頼されて書いた私の追悼文も、そこに収められる予定です。1975年9月の最初の出会いから、仕事を始めて4年目の1982年8月に、福岡で初めて「子ども文庫の会」初級セミナーが始められた経緯などを、1200字程にまとめました。
以下に、「子ども文庫の会」https://kodomobunkonokai.com/の許可を得て転載いたします。このにこやかなお顔からは想像も出来ませんが、写真の嫌いな方でしたから手元には山本さんの写真がありません。この写真は1994年撮影当時 山本さん71歳の時のもので、 12月2日、東京・港区赤坂の霊南坂教会に於いて執り行なわれた御葬儀の時に使われたものです。こうやって皆さんの目に触れる形で写真を掲載すると、お元気であれば、私は叱られたに違いありません。 どうぞご容赦下さい、山本さん。
「ナヨン」での出会いと「子ども文庫の会 」福岡セミナーの始まり
1972年3月 駅舎の広告看板を見て降り立った「倉敷民藝館」で、同館 初代館長外村吉之介(とのむらきちのすけ)先生が開けて下さった一枚の扉「民藝の世界」が、その後の私の全ての始まりです。 その扉の中で待っていて下さった、としか思えないご縁でお知り合いになったのが山本まつよさんです。
1975年秋 の事です。「季刊 染色と生活 秋号」の終りに近い頁に、フィリピンの染織品や籠類を置いている店として「ナヨン」が紹介されていたのです。戦後まもなく、柳宗悦の推薦で倉敷民藝館開館準備の為、倉敷にお住まいだった外村先生の知遇を得て、私と同じく「民藝の世界」に深く共感し魅せられた人の御一人が山本さんで、 それが後年の「ナヨン」開設につながる訳です。
1981年9月 あまねや工藝店開店3年目の催事「フィリピンの手 展」に講師としてお招きした山本さんの、フィリピンの歴史と手仕事の現状についてのお話の中に、山本さんご自身のフィリピンに対する深い尊敬と共感を感じとり、セミナーの内容も知らぬまま、友人達が世話人として、人集めから事務仕事まで引き受けてくれたお陰で実現したのが、1982年8月 の「子ども文庫の会」初級セミナーです。
1歳3ヶ月から5歳までの子ども達の親であった、私たち世話人にとって、時宜を得た願ってもない開催となりました。数年後、セミナーは熊本で5月に、福岡も8月に加えて2月と11月の年3回に増え、山本さんが紹介して下さる本の領域も広がって、その年3回のセミナーを皆楽しみに待つようになりました。 そこで紹介され、私が好きになった作家は次のような人達です。J・R・R・トールキン、C・S・ルイス、E・ファージョン、H・ロフティング、A・ランサム、R・サトクリフ、I・B・シンガー、F・ピアス、J・キャンベル、などなど名を挙げればきりがありません。
その後25年にわたって福岡に通い続けて下さり、待ちわびる私どもにとっては季節の移ろいと同じく、セミナーが「なくてはならないもの」になりました。何時でしたか、「子どもの本を読んでいれば、退屈はしないわね。」と仰った事がありましたが、本当にその通りで、今も私は変わらず楽しく読んでいます。 この本の形をした「美しいもの」を我々受講者に伝えて下さった事に、何より大きなご恩を感じています。
2006年9月 ご縁の深い倉敷民藝館特別展示室で、「 山本まつよ収集による フィリピンの手仕事 展 」をあまねや工藝店主催で開催し、はるばる九州から友人達も見に来てくれて、その事を山本さんに喜んで頂けたのが、私に出来た唯一つのご恩返しでした。
この先の時代に希望を託すとすれば、その担い手は「子ども」しかいない事、それを物わかりの悪い大人の導き手としての「子ども」に学び、「言葉」で私たちに伝えて下さった翻訳者。それが、山本まつよさんであったと思います。振り返れば、半世紀近いご縁でした。 長い長い間、本当にお世話になりありがとうございました。
あまねや工藝店 川口義典
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