工藝の世界に関わる人間、特に「作り手」にとって、一番の念願は「良い仕事(人々の暮らしのために役に立つものを作る、と云う素直な思いで無心に作る仕事 ー 多々納弘光連続講演会濱田庄司篇ー )」を自分の仕事として具体的な造型(かたち)にする事、でしょう。しかし、これが決して易しくはない事も、また銘々が充分にわきまえている筈です。では、一体どうすれば、目の前の高い壁(言わずもがなですが、この壁は自意識と云う名の、自らが作り出したものである訳です)を乗り越えて「彼方(良い仕事)」にたどり着けるのか?今回は、この事を考える手掛かりとして1978年に出版されたB•リーチの著書 「Beyond East & West 東と西を超えて 」の中に出てくる言葉 「 Life itself 生命そのもの 」を、皆さんにご紹介したいと思います。
日本語訳の「東と西を超えて」(日本経済新聞社1982年刊)で申しますと、231頁の後半から234頁前半に掛けての数頁と、最終章に近い「日本の工芸家への別離の手紙」の391頁に次の様に書かれています。「この時、何か新しいことが起こりました。ー 活きた陶器が生まれたのです。<中略> 芸術家(註 リーチさん)が自分の孤立を忘れ、真であり美である目的物のために団結出来、また団結するつもりの工芸家たち(註 後述の舩木さんや出西窯同人)と完全に協力することができる時、
ある<力>が自動的に発現した ー それが<生命そのもの>なのでした。」
ある<力>が自動的に発現した ー それが<生命そのもの>なのでした。」
少しわかりにくい日本語ですが、これは出西窯(しゅっさいがま)の多々納弘光(ただのひろみつ)さんの講演記録によれば、1964年10月16日の午後の事で、リーチさんの他に布志名(ふしな)の舩木研児(ふなきけんじ)さんと出西窯の同人仲間とで取り組みが行われています。
前日、リーチさんによって描かれた紅茶碗や水差しなど数種の食器の指図書を元に、「 例えば取っ手の場合は、木から枝が生える様に、とか、或はこういう処は、足のくるぶしの曲がったような線をだせ、とか <中略> 体や自然のものになぞらえて、指示をされました。
ですから、とてもわかり易かった。その日は午後から夜に掛けて、
どんどんどんどん作り、私達も何となく楽に出来る様になりました。
<中略> お酒も飲まないのに、皆が本当に酔った様な喜びの時間を過ごしました。」と、こう記(しる)されています。
前日、リーチさんによって描かれた紅茶碗や水差しなど数種の食器の指図書を元に、「 例えば取っ手の場合は、木から枝が生える様に、とか、或はこういう処は、足のくるぶしの曲がったような線をだせ、とか <中略> 体や自然のものになぞらえて、指示をされました。
ですから、とてもわかり易かった。その日は午後から夜に掛けて、
どんどんどんどん作り、私達も何となく楽に出来る様になりました。
<中略> お酒も飲まないのに、皆が本当に酔った様な喜びの時間を過ごしました。」と、こう記(しる)されています。
この時に作られたものが、先に触れた「活きた陶器」であり、それを産み出した力あるいは産み出されたものが、「Life Itself 生命そのもの」と表現されている言葉である訳です。
1954年に出版されたリーチさんの著書「日本絵日記」の中で、日本の陶工達が、自分の作った物をそっくりそのまま真似る(サインまで)のに、辟易する様子が書かれています。そんな、自他ともに認める「芸術家」としてのリーチさんが、この時は「自己表現」への執着を捨て、ひたすら「良い(人の役に立つ)」仕事を目指し、また他の共働作業者達もそれに歩調を合わせて仕事をした結果、実現(文中の言葉を使えば「発現」)し得た「 Lifeitself 生命そのもの」であった訳です。
この事は「民藝の世界」にとって、真に大きな意味を持つ出来事であったと思います。幾つかの条件付きであるにしても、深い愛情と信頼関係で結ばれた師匠と弟子であれば、自意識の固まりである現代人ですら「活きた陶器」が、こうして産み出せる可能性を示し得た訳ですから。しかし、この後「出西窯」で、次々に「活きた陶器」が産まれ続けた訳では勿論なく、多々納さん自身、同じ講演記録の中で「しかし、この問題は、現に現在の私達の仕事を振り返ってみましても、決して卒業出来ているものではありません。自分のわがままの中でしかものが出来ていないのが実情です。 」と正直に述べています。
1954年に出版されたリーチさんの著書「日本絵日記」の中で、日本の陶工達が、自分の作った物をそっくりそのまま真似る(サインまで)のに、辟易する様子が書かれています。そんな、自他ともに認める「芸術家」としてのリーチさんが、この時は「自己表現」への執着を捨て、ひたすら「良い(人の役に立つ)」仕事を目指し、また他の共働作業者達もそれに歩調を合わせて仕事をした結果、実現(文中の言葉を使えば「発現」)し得た「 Lifeitself 生命そのもの」であった訳です。
この事は「民藝の世界」にとって、真に大きな意味を持つ出来事であったと思います。幾つかの条件付きであるにしても、深い愛情と信頼関係で結ばれた師匠と弟子であれば、自意識の固まりである現代人ですら「活きた陶器」が、こうして産み出せる可能性を示し得た訳ですから。しかし、この後「出西窯」で、次々に「活きた陶器」が産まれ続けた訳では勿論なく、多々納さん自身、同じ講演記録の中で「しかし、この問題は、現に現在の私達の仕事を振り返ってみましても、決して卒業出来ているものではありません。自分のわがままの中でしかものが出来ていないのが実情です。 」と正直に述べています。
今回、皆さんに御紹介する三種の品々は、この「生命そのもの」の輝きに満たされている仕事です。初めはインドネシアの樹皮の曲物の物入れです。蓋の上部と底板は加工した板をそのまま使い、被せ蓋と胴の部分は樹皮の曲物で、それを合わせる為に籐を上手く使っています。(高さ 23cm 径28cm)
次は、朝鮮•高麗時代の丼ほどの大きさの象嵌の碗です。碗の縁から少し下がった処と、見込みの心持ち外側に引かれた数条の白い象嵌の線が、この碗の中の景色を生々と引き立てています。
(高さ 9cm 径 18cm)
最後は、福島県会津本郷(あいづほんごう)の飴釉の切立甕(どうやら漬物用)です。小さな火鉢程の大きさで、朝鮮の鉄瓶と合わせて点茶に使ってみたい品です。(高さ 22cm 径 25cm)
8月11日 追記 今回の原稿は、自分で読み直すたびに何か不十分で本意をお伝え出来ていない気がして、ここ10日間で何度も手を入れました。従って、何度かこの文章を読んで下さっている方があれば、読む度ごとに、細部が少しづつ違う事にお気づきだった筈です。
8月11日 追記 今回の原稿は、自分で読み直すたびに何か不十分で本意をお伝え出来ていない気がして、ここ10日間で何度も手を入れました。従って、何度かこの文章を読んで下さっている方があれば、読む度ごとに、細部が少しづつ違う事にお気づきだった筈です。