先の大戦後間もない1947年に5人の若者によって始められた出雲の出西窯(しゅっさいがま)。その出西窯初訪問の事や仕事については、すでに本稿「忘れられないもの 23」で取り上げました。ところで、その出西窯窯創業から50年目にあたる1997年12月から翌年12月にかけて、当店主催で創業者5人の同人の御一人•多々納弘光(ただのひろみつ)さんに、同窯に縁の深い(多々納さん仰るところの)「お師匠樣方」、河井寛次郎(かわいかんじろう)、濱田庄司(はまだしょうじ)、バーナード•リーチ〈以上、陶芸家〉、吉田璋也(よしだしょうや)〈鳥取民藝美術館初代館長•鳥取民藝協団創設者〉、村岡景夫(むらおかかげお)〈日本民藝協会専務理事〉、外村吉之介(とのむらきちのすけ)〈倉敷•熊本国際 両民藝館初代館長〉、柳宗悦(やなぎむねよし)〈日本民藝館初代館長〉、山本空外(やまもとくうがい)〈浄土真宗僧侶〉の8人の方々について、6回に分けて講演して頂いた事があります。多々納さんの手元に残されている当時の日記を始めとした数々の記録と縁(ゆかり)の品々を元にして、毎回、興味深い、面白くも感動的な話をその場に集まった者達に熱心に語って下さいました。
その連続講演会の3回目にお話し下さった英国の陶芸家B•リーチ氏(以後、リーチさん)の時も、1954年から始まる出西窯との縁の事。また、リーチさん5回目の来日になる1964年には、出西窯に丸二日間滞在し、仕事の手本になるカップやジョッキにポットそしてピッチャー等、たくさんの作品や指図書など、宝の様な品々を出西窯に残している事などが語られました。そして、今回皆さんに是非お伝えしたいと私が思った言葉が、後年リーチさんが亡くなった時に多々納さんが書かれた追悼文の題名、「この茶碗に唇を触れて喜びがあるか?」(これはリーチさん御自身がよくそう仰っていたのを思い出しながら書いたと多々納さんは仰っています)なのです。
この言葉自体、極めて感覚的な言葉の様に聞こえますが、実作者としてのリーチさんならではの言葉で、作り手の側から見た工藝品の道具としてのあるべき姿を、実に判りやすい言葉で表わしている様に私には思えます。これは、7回目の来日時の1966年11月12日、松江で行われた「歓迎会」席上での卓話。当日参加の多かった作り手に対して語られた言葉である、「みんな、自分で使って自分で喜びを確かめながら作れ。自分の作ったカップに唇を当てて喜びがあるかどうか。手に温もりが伝わるか。」とも重なって、深い印象を残す言葉になっています。しいて言えば、厳しい眼に適う美しいものは、人間の五感に働きかけて身内に「喜びの感情」を引き起こすものだ、心して作りなさい、位の意味になると思います。
さて、今日皆さんに御紹介する三種の茶碗、二つの刷毛目碗
(左 径17cm 高7cm 右 径18cm 高7•5cm)は李朝時代の鶏龍山
(けいりゅうさん)のもので、右の碗は特に出西窯の引刷毛目碗の原型の様な仕事になっています。
李朝の無地刷毛目の様に見える碗(径17cm 高7cm)は、魚文皿の仕事で知られているタイのスコタイの窯のもので、先の朝鮮の碗と比べて見ると、材料の土が全く別物です。
いずれも唇に触れて味わいたい趣を持つものです。
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