2009年8月24日月曜日

百子の花日記 5


8月14日 暇にまかせて植物に関する本を繰っていくと、サンビタリアという名前を見つけました。花びらが黄色で種子になる部分が黒く、たとえ枯れてもドライフラワーで楽しめます。これまで名前がわからず、ルドベキアに似ていて小さいのでミニルドベキアと呼んでいました。やっと見つけたサンビタリアですが、よくよく見ると、どうも違うようです。当分の間、ミニルドベキアと呼ぶ事にしましょう。

ミニルドベキア、男よもぎ、金水引、枯れ紫陽花

2009年8月16日日曜日

百子の花日記 4


8月13日 店に出ていると、どうしても家の行事の準備が遅れます。いつもは、朝6時に起きて盆迎えの準備をしますが、今年はお寺さんが午後のお経上げですから、慌てなくてすみました。
朝8時起床。仏様の御膳、供物、花生け(買い花の蓮の実、おみなえし、りんどうと我が庭の金水引)10時に準備OK。盆参りのお客様もお見えになりました。夕方には迎え火も焚きます。

玄関の迎え花 むくげ(大徳寺 一重)、赤水引、金水引、メドーセージ

メドーセージは咳と喉の薬になります。メドーセージの葉とレモン半個を絞ってカップに入れ、湯を注いで温かい内に飲みます。ダイアンから教わりました。お試しあれ。

2009年8月9日日曜日

百子の花日記 3





8月9日 これまでに生けた花のうち、特に好きな花を皆様に。
最初の花は、紫陽花いろいろ、フェイジョア等を池本忠義作の大皿に。2番目は、我が家の客間の床に生けた、こばのずいな、紫陽花の紅葉。3番目と4番目は、昨年の第13回山本教行個展の折のもので、飴釉しのぎ花入れにナスタチュウムを。白釉しのぎピッチャーには白のクレマチスを。

百子の花日記 2



いつき へ

7月23日 Sさんに庭木の剪定をお願いし、姿の良い立派な栗の木をバッサリ。枝に付いた若い実がもったいないので、知人にわけた後、我が家にも生けました。鹿児島・福山の黒酢の瓶に入れました。Yoshiは、この瓶に生けるのが好きではありません。私は楽しいのよ!
若栗と小えび草。

8月2日 うたた寝をして・・・。小さな貴女にセーターを着せたのは夢の中の記憶です。8月というのに寒い夏。梅雨はまだ明けません。庭では山吹が狂い咲き。黄色の花が雨に濡れ、緑の中で一段と輝いていました。その山吹の代わりに、色々な葉を生けました。
きはぎ、薮からし、たで、ツタ、グミの若葉。

2009年7月25日土曜日

鈴木照雄君の事





夕刻、時間雨量110mmの豪雨に見舞われた昨日、友人の鈴木照雄君が夫人と二人で福岡にやって来ました。朝の電話では、仙台空港がひどい霧で欠航かもしれないとの事で心配しましたが、無事に定刻の昼頃到着。’95年12月に、同君の個展を“あまねや工藝店”で開催して以来ですから、約14年振りの来福になります。その個展案内状の中で、私は次のように書いています。
「’93年の春、最初に仕事場を御訪ねした時、強く印象に残ったのは仕事場の背後に広がる雑木林の美しさと、堤・館の下など東北諸窯の大がめの優品や仕事場の壁に掛かる竃面など、家の内外に筋の通った工藝品が溢れている事でした。これらの品がこの家の主である貴方の創作の源になっているのは想像に難くありません。しかし喜びを与えられる一方、これらのものを物差しにして自分の仕事を計る事の苦しさも又いかばかりのものでしょうか。・・・」

’92年の秋、久しぶりに見た“日本民藝館展”の一室で、黒地に釉を流し掛けた7寸位の皿・数枚が目にとまり、民藝館職員で旧知のTさんに作者を尋ねたところ、鈴木照雄という私と同世代の男性で、宮城県の北部で家族と離れて独り住まいしながら仕事をしている人である事、そして更に話を聞いてみると、数年前にTさんから貰った“黒釉手付き片口”を作った同じ作者のものだと云うのです、驚きました。
というのも、私が最初に見たその片口は妙にいじけたロクロで、こんな仕事を見ていると短気な(本当です)私は、後ろから「しっかりしろ!」と背中をどやしつけたくなるのです。ところが目の前に見る仕事は、いつもうつむいて歩いていた人がようやく顔を上げ、真っ直ぐ前を見ながら歩き始めた姿を見ている様で、実に良い仕事になっているのです。Tさんに連絡先を聞き、手紙のやり取りを数回した後、翌’93年4月に鈴木君を仕事場に訪ねました。取り付け道路から田んぼの間を50メートル程進むと、背後に大きな雑木林を背負った敷地の左手に母屋、右手に元家畜小屋だった仕事場が建っています。その建物の横を廻り込んで少し上った処に、自分で築いた登り窯があって、一人で仕事をする環境としては申し分なく見えます。同居人は、雌の柴犬と鶏数羽。その夜、同君の手料理で酒を飲みながら、鈴木君の仕事全般に対する私の感想を、率直に話しました。(当然、悪口に聞こえます)
それを怒らずに聞いてくれた上、廻りに並んでいる同君の集めた様々な物の話しをするうち、すっかり仲良くなりました。
それ以来、東北に出掛ける時は必ず立ち寄る場所の一つになり、’95年2月仙台のFデパートでの同君最初の個展の時は、会場構成や物並べの手伝いもいたしました。

鈴木君の作る物には、その風土と仕事の根(平たく言えば、米の飯を食べ味噌汁をすすりながら生きている人間が作っている事)が、はっきりと映っている様に私には見えます。目隠しされた後、町の真中に立たされて眼を開けても、そこが何処の町だかわからない様な時代に生きている私達にとって、仕事の背景ともなり根っ子ともなる“風土”と切り離して考える事が出来ない“工芸の世界”の仕事くらい、せめて自分の暮らしている土地の“なまり”でしゃべって欲しいのです。
一人の作家が始めた或る仕事(例えばスリップウェア)が流行れば、その真似をして(おまけに意匠としての模様まで)一斉に“右へならえ”と云うのでは、仕事をする人間としてあまりにも情けないと思います。こんな時代であればこそ、それぞれの風土、更には作り手個人の
“根”が反映された、“なまっている”仕事が見たいと切に思います。

2009年7月23日木曜日

百子の花日記 1





細君の百子が、薮の様な庭にあれこれの花を作っているのは公然の秘密です。質の悪い花泥棒に悩まされ、ある時は25年も育てて来たクリスマスローズ(花そのものは50年生くらい。花を40本ほども付ける見事なものでした)を株ごと盗まれたり、貰ったばかりの黒のロウバイを盗られたりと、散々です。でも、めげずに育て続けた色とりどりの花を店にある様々な花入れに生けるのが、彼女の大きな楽しみなのです。これから折に触れ、その花々を皆様に御紹介いたします。以下、細君が書いたものをそのまま掲載いたします。

オーストラリアに住む娘・Iに見て貰うための花を生けます。

7月8日。 花の少ない夏に向かって庭木を剪定。残り花の紫陽花と白の縞が綺麗な暖竹、そしてインドハマユウのラッパ型の白い花で、梅雨の晴れ間の庭は気持ちの良いものでした。岩井窯・山本教行作 灰釉象嵌扁壺には、暖竹とインドハマユウ。同じく岩井窯の瑠璃釉面取り花入れには、紫陽花いろいろと木槿(ムクゲ)。
7月12日。前日の土曜日まで、店にある丹波・柴田雅章作 灰釉どら鉢に生けていた花を枯らしてしまうのが勿体なく、家に持ち帰って山本教行作 地釉角花入れに生けました。人参木の花穂が全体をメタリックにして面白く見えます。人参木は中国より渡来したもので、葉にとても良い香りがあります。 
7月20日。IとMの結婚記念日に。白の玉紫陽花は、7月1日の開店30年の記念として庭に植えました。いつきの小学校卒業記念樹のアメリカハナミズキは、カミキリムシの幼虫が幹に入って、10年前に枯れました。いつの日か、Sや生まれて来る孫の為に植えようと思います。山本教行作 地釉角花入れに、八重の桔梗、薮茗荷、玉紫陽花。

2009年7月15日水曜日

民藝館の陳列について




’72年の春、初めて倉敷民藝館の陳列を見て私が驚いたのは、其処にある品物の大半が裸で、しかも生き生きと並べられている事でした。一般的な博物館などで、それまで見ていたガラス越しの展示にくらべると、それがひどく新鮮に見えて、その事を外村先生にお話ししましたら、たいそう喜んで下さいました。たしか、「物は風に吹かれるくらいが丁度いいんだ」と仰った様に思います。さて、手元にある月刊「民藝」の’74年4月号に、私が最初に先生の陳列替えのお手伝いをした時の、懐かしい写真が載せられています。囲炉裡を切った大広間から階段を上った部屋に作られた、奥行きほぼ1間、間口が2間位の
“のぞき”の展示は忘れられません。左の隅に、KAKI工房の松材の白々と美しい飾り棚が据えられ、その棚には彩りも美しくメキシコやイタリヤの吹きガラスが並びます。中央にはグアテマラの彩色した櫃、スペインの緑釉の大蓋物、メキシコの黄色い楕円皿、奥の壁際にスペインの7本の腕を持つ鉄の燭台が据えられていて、その腕の一つ一つに色とりどりのちびた蝋燭まで差してあるのです。展示の目処がついた後、“のぞき”の横の入り口を開けて「(この展示)匂いまで付いているんだよ」(スペインの鉄の燭台に差された蝋燭が何とも云えない好い匂いがして、当時の私には其れが西洋そのものの匂いに思えました)、こう仰った先生の嬉しそうなお顔も目に浮かんできます。

さて、倉敷民藝館・臨時職員時代のたぶん1年目の夏であったと思いますが、かつて倉敷民藝館に御奉職でその当時、大阪日本民藝館の主事をなさっていた鈴木尚夫さんが夫人と御二人で来倉され、私にも声をかけて下さいました。それが御縁になって、その後大阪日本民藝館の陳列替えに呼んで頂けるようになりました。大阪では、鈴木さんと御友人で松江の御茶人(正確ではありませんが、ひとまずこう呼んでおきます)金津滋さんのお二人が中心になり、京都で織物をしておられた小谷次男さん(主に展示に必要な道具や、仕掛け類のご担当。柳悦孝先生の御弟子だった人です)などの他、私のように呼ばれた若い手伝い2・3人で、数日掛けて展示します。大阪日本民藝館が素晴らしいのは、なんと言っても第1室の長い“のぞき”で、丁度絵巻物を次々に拡げて見ていくような楽しさがあります。いつだったか、そこに沖縄の染織品が並んだ時などは、まるでガラス越しに南国の海の底をのぞいているような楽しさがあって、私には忘れられない展示のひとつです。大阪の楽しみは展示が終わった後の食事です。鈴木さんの御自宅に呼んで頂いて、奥様の美しく美味しいお料理に感激した事や浜田庄司の7寸皿、倉敷堤窯の素晴らしい湯呑み等々、それまで見た事もない焼物を直に使った家庭料理に接したのも、初めての経験でした。

こんな経験を重ねながら各地の民藝館を見ていくと、それぞれの民藝館で陳列の具合(持ち味の様なもの)が違う事、また民藝館と名乗っていてもひどい展示もある事など色々な事がわかって来ました。公の民藝館とは言いながら、それを慈しみ育てて来た人が亡くなれば大きく様変わりする事は避けられません。その意味で、民藝館もまた“個人の表現”と言っても良い気がします。倉敷、熊本、松本、富山などの民藝館を長い時間の中で拝見していて、特にそう感じます。“民藝”の名を冠した施設であれば、それを通して“民藝”の何たるかを人に知らせる場所として、大きな責任が伴うのは言うまでもありません。月刊「民藝」掲載の少なからぬ諸施設の内、その責任の自覚をどれほどの所が持っておいでなのか、率直に聞いてみたい気が今しています。そして、民藝館にとって陳列が大事なものである事が自明の事だとすれば、感覚的なそれを、伝え易い一つの文法あるいは技術の様なものに還元し、後に繋げていく為「いま何をすべきなのか」を、関わりのある者すべてが自分の問題として考える必要があると思っています。

写真は、上から倉敷、大阪、松本の民藝館の陳列の様子。古い月刊「民藝」の写真をカメラで写したものです。見難いのはご容赦下さい。