出雲の出西窯(しゅっさいがま)と云えば、「民藝の世界」ではたいそう有名な窯です。戦後間もない1947年、当時20歳前後の農家の次男•三男五人が集まり、焼物の伝統が全くない土地で創業。
そうするうち、河井寛次郎、濱田庄司、バーナード•リーチ、柳宗悦など「民藝の世界」の(創業者メンバー•多々納弘光さんの仰る)御師匠樣方と縁が出来て、運営の形も当初は「企業組合」(現在は株式会社)として、現在につながる食器中心の仕事を主にする新しい民窯が誕生する訳です。
さて、その「出西窯」を私が初めてお訪ねしたのがいつ頃だったのか、もう一つはっきりしません。ただ鮮明に印象に残る訪問の記憶が二つ。一つ目は訪問時、最初に私の相手をして下さったのが、創業者五人の内の御一人で今も御元気な(筈の)多々納良夫(ただのよしお)さんであった事。そして、その日の私の買い物が、焼物の底に何処かの学校か組合の名前が釘彫りで書かれた(記念品の残りの)マグカップであった事で、この一つ目の「出西窯」訪問の記憶が正しければ、私の「倉敷民藝館」臨時職員時代の二年目か三年目で、外村吉之介(とのむらきちのすけ)先生に、あちこち見て来る様に云われた二ヶ所目(一ヶ所目は前年夏の徳島県の山間地での「阿波踊り」でした)だった筈です。だとすれば、それは’73年か’74年で、いまから43•4年前の事になります。
しかし、同時に二つ目の忘れられない「出西窯」訪問の記憶があるのです。それは、松江にたくさん雪が降った日、同市在住の金津滋(かなつしげる)さん(お茶人で、出西窯が、と云うよりこれも創業者の御一人、多々納弘光(ただのひろみつ)さんが、柳初期の論考「私の念願」を通して柳宗悦に出会う切っ掛けを作った人と申し上げておきましょう、当時すでに後述の大阪日本民藝館の陳列もやっていらっしゃいました)の御宅をお訪ねし、そこで苗代川(なえしろがわ)焼の黒釉の筒湯呑に、生姜を擂り下ろしたたっぷりで熱々の甘酒を御馳走になった事。その後、(多少前後関係が怪しいですが)お茶のお弟子の御一人がやっておられる料理旅館に泊めて頂いた事。その翌日に車を出して頂いて、松江の「神魂(かもす)神社」や「出西窯」に連れて行って頂いた事。この時の私の買い物が黒釉の縁付八寸皿であった事。並んでいる同種のもののうちどれが良いかわからず、金津さんに選んで頂いた事、等々。これが初めてであったとすれば、更に1•2年あとの事で、金津さんの御友人で、当時、大阪日本民藝館の主事をやっておられた鈴木尚夫(すずきひさお)さんに声を掛けられて、大阪日本民藝館の陳列替えの手伝いを始めていた頃の事になります。
さて、今日皆さんに御紹介するそんな出西窯の仕事二種は、どちらも40年以上前の仕事です。最初は引刷毛目の灰釉大皿(径 50cm 高さ 12cm) で最近の出西窯の仕事にはあまり見る事の出来ない調子の強い堂々とした優品、
次は刷毛目の茶碗でまことに程の良い大きさ、釉薬の調子も上々の佳品です。(径 14cm 高さ 7cm)
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