1961年、私が12歳(小6)の秋に初めて青木綜一さんとお会いしました。その前年(或は、その年の春かも知れません)、家事全般と私の面倒を見てくれていた一回り歳上の姉が嫁に行き、自分の勤めを持ち忙しかった母が、他に兄弟のない私を心配してか、家庭教師として青木さんを頼んでくれたのです。当時、青木さんは九州大学経済学部一年生で19歳。学生服の詰め襟の左右に、九州大学の校章と経済学専攻を示す金色のEのエンブレムが光っていたのを良く覚えています。はっきりした男らしい眉と、大きな目に黒縁の眼鏡を掛けた穏やかで優しい人でした。
その後の中学時代の三年間、週に一度、自宅で様々な科目の勉強を見てもらったのですが、母には申し訳ない事ながら、家庭教師としての青木さんの記憶は、ほとんど私にはないのです。それよりも、思春期の入り口にさしかかった少年(私)に、「西洋古典音楽」の世界の扉を少し開いて、大人の世界の一端を垣間見せ、その楽しさ美しさを教えて貰えた、その意味で文字通りの教師であり、頼りがいのある兄で、私にはありました。
いまでも、博多港近くの須崎公園の奥に建つ「福岡市民会館」で、アマチュアのエキストラ(手伝い)の楽団員が混じった、決して上手とは云い難いアンサンブルの九州交響楽団の定期演奏会で、フィンランドの作曲家 J•シベリウスの交響詩「フィンランディア」を初めて聴いた時も、博多の綱場町にあったクラシック音楽喫茶「シャコンヌ」で、それまで見た事も聴いた事もない様な大きな自作のスピーカーシステムから流れるレコード音楽に魅せられた時も、いつも青木さんが傍で一緒でした。
後年、東京で過ごした学生時代のある一日、結婚後間もない青木さんを千葉県船橋市郊外の公団住宅にお訪ねした事があります。おそらくその時が、私が直接青木さんにお目にかかった最後で、お元気なら現在七十代半ばになられる筈です。いまの私にとって、掛け替えのない楽しみ或は喜びとして、自らの内に深く根を下ろした「西洋古典音楽の世界」に親しむ手ほどきをして下さった人、青木綜一さん。その御礼を直接お目にかかって申し上げたい、初めてお目にかかって55年以上が過ぎた今、そう強く願っています。
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