2018年12月24日月曜日

忘れられないもの46 語り手としての多々納弘光


1973年8月、「民藝の真意による 美の王国の待望」というスローガンを掲げて、一般的に誤解の多い「民藝」と言う言葉の内容や思想の理解を助け深める為、社会への働きかけの一助として、倉敷民藝館初代館長•外村吉之介(とのむらきちのすけ)の唱導によって始められたのが「日本民藝青年夏期学校」(後の日本民藝夏期学校)です。’73年の第1回伊予西条から’98年の第100回東京駒場まで、25年間に渡って行われた(仮に第一期と呼ぶ)第一期の「日本民藝青年夏期学校」(以後も継続中)で講義を担当した外村を始め、濱田庄司(はまだしょうじ 陶芸家、柳宗悦没後の第二代日本民藝館館長)や柳悦孝(やなぎよしたか 柳宗悦の甥で染織家、女子美術大学学長を務めた)、また柳宗理(やなぎむねみち 柳宗悦の長男で工業デザイナー、第三代日本民藝館館長)など民藝の世界に於ける高名な講師陣の中に混じって、出西窯陶工 多々納弘光(たたのひろみつ)の名も見えます。

’78年倉敷会場の「陶技と美」に始まり、’98年鳥取会場の「璋也先生と出西窯」まで、合わせて12回の講義を行った多々納弘光によって、’86年第57回の長崎会場から語り始められたのが「出西窯の仕事」です。(「日本民藝夏期学校 • 100回の記録」東京民藝協会1998年9月1日発行 福本稔 編 )これは、戦後間もない1947年、当時19歳•20歳の農家の次男や三男であった五人の青年の合力(ごうりき)によって始められた「出西窯」の発端となる幾つかの出来事(1945年8月、弘光青年が遊学先の長崎から、病を得て帰郷する同郷の親友に付き添って出雲に帰った直後、長崎に原爆が投下され多くの学友•教師が死亡、自身は生き残った事。また戦後、生き方を模索している折に河合栄治郎著「自由主義の擁護」に出合い、共同体による農村工業創始を志した事など)、そして不思議な縁(松江在、四歳年長の金津滋かなつしげるを通して柳宗悦著「私の念願」を知り、河井寛次郎を紹介される)によって出会う事になった「民藝」の世界、そして河井•濱田を始めとする民藝の世界の巨匠や山本空外(やまもとくうがい)上人と出西窯との出会い、などが同氏自身の日記や手紙等の資料を基にして、二時間程の語りの中に凝縮された見事な構成の講義です。

1997年、出西窯創業50年に当たるこの年の12月から翌’98年12月まで。おおよそふた月に一回、六回に渡り多々納弘光自身を語り手として実現したのが、この「出西窯の仕事」の人物編とでも云うべき「多々納弘光連続講演会」です。


多々納さん仰る処のお師匠様方、河井寛次郎、濱田庄司、バーナード•リーチ、吉田璋也、各氏にそれぞれ一回ずつが当てられ、村岡景夫、外村吉之介と柳宗悦、山本空外の四氏は二人で一回。こんな構成の講義の進め方で、平均して毎回二十人程の人達を前に、それぞれの方に縁(ゆかり)の品を持参し熱心に話をして下さいました。会場は、福岡の中心部天神にほど近い、若宮神社の奥に建つ今泉会館で、会場の四十畳程の大広間に、3×6のベニヤ板2枚を合わせ屏風状に仕立てたもの二組を用意して背景として使い、それに毎回様々な生地を掛け、テーブルを用意して講演の舞台を作りました。主な聴き手は、初代の福岡民藝協会会長 故野間吉夫氏の夫人フキさんから小石原焼や小代焼の作り手の皆さん、そして当店のお客樣方に至るまで多様な人達が参加して下さいました。

第一回の「河井寛次郎」篇では、河井が初めて出西窯を訪ねる折、出雲市郊外の大津で漁師が使う瓦器の手焙り「釣鐘火鉢」を発見し、作り手の老陶工に敬意と喜びを持って語りかける場面でその「釣鐘火鉢」が登場するなど、多々納さん自身の語りに加え、これら具体的な品を使う工夫によって、どの回の講演も聞く人に強い印象を残しました。後年、知人の一人がテープ起しをしてくれた活字を目で追うだけでも、熱のこもった語り口が目の前に蘇って来る様です。六回の講演のうち大半は新幹線や飛行機を使った日帰りで、講演の謝礼も「年金を頂ける様になったから」と仰って、受け取って頂けませんでした。

また途中、講演会の聴き手がひどく少なくなった時も、「(たとえ、聴き手が)あなた一人になっても話しにくるから」と仰って下さり、後に続く人達に自分の経験した事をどうしてでも伝える、そんな気概を感じて励まされた事もあります。講演の模様はビデオテープ六本に残し、それをDVDに焼き直してもらったものが、現在も私の手元にあります。若干見にくい処はありますが、同氏の熱のこもった語り口は感じ取って頂ける筈です。この講演記録を皆さんに見て頂ける様な機会を、この先出来るだけ沢山作り、2017年年6月末に亡くなった多々納さんの御遺志に応(こた)えたいと思っています。

2018年12月22日土曜日

第2回「百冬の会」開催中

会場正面から中央の舞台
催事の面で穴あきだらけであった今年も、なんとか師走迄たどり着く事が出来てホッとしています。さて、昨年師走に開催して好評であった「百冬の会」を、今年も年末から年明けに掛けて開催いたします。これは自宅の片付けに伴って、思いがけず押入や箪笥から姿を現した色々な品を皆様方にお目にかける企画です。それに併せて昨年好評だった、当店の古いお客様 Fさんの「岩井窯•山本教行」作品のコレクション第2弾、食器諸作およそ百点を並べ販売いたします。
[ 前期 ] ’18年12月19日(水)から29日(土)まで。会期中の月曜日24日は休み。[ 後期 } ’19年1月5日(土)から13日(日)まで。会期中月曜日7日は休み。
山本作品の大壺
正面壁に山本作品の硝子絵や陶額
さて2019年は、1979年にあまねや工藝店を中央区今泉に開店してから40年目を迎えます。1月下旬の「原陽子個展」から始まり、3月初めの木村葉子•斉藤ひさ子二人による「Funny Figure 展」、3月下旬から4月初めに掛けて久し振りの「Mon sakata 展」、4月下旬から5月初旬に掛けて2回目の「喜びのたね命のかて展」、5月下旬久し振りのアイルランドの画家「D•クイン個展」。後半になると、9月から10月に掛け八女と福岡で、これまで染色ユニット natsumichi の一人として皆様にご覧頂いていた「大木夏子個展」、11月は「松形恭知作陶展」など、他にもお愉しみ頂ける企画を準備しています。皆様のお出掛けをお待ち申し上げます。それでは、皆様どうぞ良いお年をお迎え下さい。

2018年12月3日月曜日

忘れられないもの45 健やかな道具 3

フィリピンの肩掛け籠三種と食籠
フィリピンの平籠

「健やかな道具」3回目は、竹や籐あるいは木を使って造形された様々な道具類をご紹介します。まず最初は、籐や竹を素材に作られたフィリピンの肩掛け籠三種(縦18cm~32cm 横22cm~32cm 巾7cm~12cm)に、竹と籐で造形された平たい食籠(じきろう)(縦22cm 横23cm 高11cm)、そして大きく深めの籐の平籠(径55cm 高24cm)です。
実用的な編組品として見るこれら籠類は、用途の上からもまた造形的にも、瑕疵(かし)のない実(まこと)に申し分のない仕事に見えます。
同じ編組品でも、日本の伝統工芸系の仕事に接して時に感じる、ある「息苦しさ」の様なものは微塵もなく、用に徹した仕事のみが持つ風通しの良い仕事になっています。

パミレケ族の筬とトルコの機道具

次は、アフリカ•カメルーンのパミレケ族が、細巾の木綿布を織る時に使う水平機(すいへいばた)で使う筬(おさ)(縦17,5cm 横17cm)です。丸く
造形された方を下にして上から吊るし、それ自体の重さを生かして緯糸(よこいと)を打ち込む時に使います。その隣りは、トルコで作られる毛織りの敷物キリムの、同じく緯糸を打ち込む道具(縦32cm 横11cm 
厚1cm~3cm)です。持ち手から刃先まで継ぎ手を使わない一木(いちぼく)の作りです。いずれも物を産み出す道具として用途に仕える品でありながら、いや、むしろ仕える品であるからこそ、特にパミレケの筬は、アフリカならではの豊かで美しい造形になっています。

木版更紗布版木三種

その次は、インドの木版更紗布を制作する時に使われる版木三種(平均 縦9,5cm 横12,5cm)です。一木で作られたものもあれば、本体上部に溝を彫りそこに持ち手を差し込んで留め付けたものなど、様々な作りのものがあります。堅木(かたぎ)に彫られた模様の一部が欠けると、実用の道具としては御用済みになる訳ですが、それ迄にどの位の数の更紗布が染められたものでしょうか、見当もつきません。これも造形としては陰の立役者の様な物で、これ自体が造形として表舞台に立つ事はない品ですが、こうして改めて見直しても充分に美しい造形です。

李朝の菓子型

最後は隣国の韓国•李朝時代の菓子型(縦 36cm 横 6cm 厚 約3cm)です。日本にも同様に桜など堅木に彫られた見事な菓子型がありますが、
それら日本の仕事と比べると、いかにも長閑(のど)やかな持ち味の造形が李朝の陶磁器類の持つ印象とも重なって、ここにもまた或る時代と文化を反映した健やかで美しい道具を見出す事が出来ます。              

2018年12月1日土曜日

忘れられないもの44 健やかな道具 2


「健やかな道具」2回目の今回は、大きなもので尺五寸、小さなものでも九寸程の皿4種です。一番大きな白釉の皿は、20年近く前、東京•西新宿のコンランショップで手に入れたもので、イタリア製の型ものです。この皿に上絵付けをし絵皿として飾るカンバス替わりの無地の皿で、これより小さな九寸位の皿もあります。最初に買った大皿は、自身買い物自慢でもしたかったのか、何かの折に山本教行さんにお目に掛けたら大喜びされてしまい、そのまま差し上げてしまいました。次に上京した時にもう一枚買い、勇んで持ち帰る途中(何しろ大きいので)、JR新宿駅の地下改札口へ下る途中の階段の角にぶつけて、凄い音と共に木っ端みじんに。その後、同じ処を訪ねても手に入らず諦めていました。それからずいぶん時間が経って、仕事で岩井窯をお訪ねした時にその話をしましたら、同じ皿が手元に2枚あるからと、この一枚を山本さんから頂戴したのです。


次は、トルコの仕事で、銅に錫メッキを施した金属製の皿です。これも白釉皿と同じく、皿の縁が広い形をしています。或るイタリア料理店で、この形の磁器の皿にパスタが盛られて出て来た事がありますし、旧拙蔵の十六世紀オランダ•デルフトの白釉皿も同じ様な形状の皿でしたから、西欧世界では縁の広い形状の皿はさほど珍しいものではないのでしょう。


三番目の皿は、2006年浦和の柳沢画廊で行った「抽象紋の皿100展」の折、小鹿田の坂本工によって造形された尺一寸の皿100枚の内の1枚です。皿の内側に白釉が打ち掛けられたこの1枚、(知る限りに於いて)それまでの小鹿田焼の仕事に、らっきょう壷や雲助•水甕等の肩に釉を打ち掛けた仕事はあっても、皿の内側に同じ様に釉が掛けられたものはない(坂本工 談)との事で、立派な新作の一枚という訳です。


最後は、山陰(おそらくは石見辺り)の仕事で、緑釉が皿の内側に意図や躊躇いの跡を見せず、大胆に打ち掛けられた尺一寸あまりの皿で、雑用品としては申し分のない仕事です。