人の暮らしに必要な品や道具類の盛衰の行方を決めるものが、ある時代•地域の人の「需要」(本来の、或は広告宣伝等を通して意図的に作り出されたもの、か否かに関わらず)であるとすれば、実用具としての水甕は上水道普及率98%近い現在の日本では、すでにその役割を終えています。しかし、70年ほど時間を遡れば普及率も30%を下廻り、日本の各地で水甕は必要とされ盛んに作られていたのです。
この堀越の水甕は、私が地下鉄工事に伴う文化財発掘のアルバイトをやっていた1•2年後の、’81、2年の春頃手に入れたものです。その頃、私は未だ運転免許を持っていず、発掘現場で知り合った同僚作業員のTさん(女性)にお願いして、Tさん所有の軽四輪ワゴン車に同乗。山口県防府市の海辺にある堀越まで、往復約370Kmの道程をこの水甕を買うために出掛けたのです。
窯主の賀谷初一(かやはついち)さんは七十代に見えました。奥さんのすえのさんと二人暮らしで、次男の省三さんも当時は御同業でしたが窯の跡は継がず、何処にでもある(したがって、それなりに需要が見込める)型物の植木鉢製造を生業(なりわい)にしていらっしゃいました。
瀬戸内の海を間近に臨む小さな家の庭先には、大変な数の水甕が、文字通り、山の様に積み重ねられてありました。賀谷さんの窯で作られるものは、大小の水甕の他、味噌甕•野壺•擂鉢•口付徳利•野花立など、すでに当時ですら、多くの需要が見込めるとはとても思えない品々ばかりでした。
ただ一方で、「需要」という、言葉には出来ても姿の見えない、「化け物」の埒外の仕事であったればこそ、倉敷民藝館初代館長 外村吉之介(とのむらきちのすけ)や日本民藝館第三代館長で工業デザイナーの 柳宗理(やなぎむねみち)が審査員を務めていた「日本陶芸展」第三部や「日本民藝館展」での入選や受賞もあり、堀越焼•賀谷初一窯の仕事が本格的な民窯の仕事として高く評価されてもいたのでしょう。
ところで、この水甕は、紐作りで成形した後、道具を使って叩き締めた槌痕(つちあと)が表に残り、それが甕の肩から腰にかけて打ち掛けられた藁灰釉の効果とも相俟って、強い調子を甕全体に与えていて見事な出来映えです。この時は大小の水甕の他、味噌甕、野壺などの中や隙間に擂鉢や野花立を重ねたり押し込んだりして、車に詰めるだけ詰んで帰途につきました。高速道路を使っての往復でしたが、帰りの平らな路では、何とか規定の速度(80Km)を保って走る事が出来ましたが、上り坂になると(積み荷の水甕類の重さの為)見る見る速度が落ちてノロノロとした運転になり、助手席に座っていて何度もはらはらさせられました。写真の水甕(径50cm 高60cm)は、自宅脇に長い間伏せたままであったものを水洗いして撮影したもので、暮らしの道具としての水甕の中に、これほど立派で美しい仕事がかつてあった事をここで顕彰(けんしょう)して、この稿を終わりたいと思います。
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