福岡書芸院発行の冊子「たんえん」6月号掲載の記事、「忘れられないもの 3 (似たもの同士 )」をお届けします。
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左側の一番大きい安南鉢から 時計回りに中国 • 西安鉢、手前が涌田窯のマカイ |
「あまねや工藝店」開店2年目の冬。店の売り上げだけでは生活出来ず、家族を養う為「土方(土堀り)」のアルバイトを始める事にしました。これは福岡市教育委員会•文化課の仕事で、当時盛んに行われていた福岡市営の地下鉄工事に伴い発見される、市内各所に散らばる遺跡発掘の仕事です。初めての現場は、弘法大師•空海と縁の深い真言宗の大寺•南岳山東長寺近くの博多区祇園町のマンション建設予定地です。
朝8時30分始業、昼食休みのほか午前と午後に一回ずつ15分の短い休憩をはさみ午後4時30分まで、週五日の仕事です。仕事に慣れるまでの2•3週間は疲れて仕方がありませんでしたが、30代初めの身体は適応力があるんですね。だんだん平気になり、何とか毎日が勤まる様になって来ました。その代わり昼頃にはお腹が空いて空いて、二合のご飯とおかずをぎっしり詰めた曲げワッパの弁当(ドカベン)を持って行かないと、体が持たなくなりました。
そんな具合に始まったアルバイトでしたが、私にとってこの仕事は興味深くも素晴らしい経験になりました。現場は、現場監督を務めるMさんおよび補助役のIさんのほか、現場作業員の半分以上は西区から引き続きこの仕事を続ける「農家のおばちゃん達」で、残りは食えない歌手や絵描きに工藝店主など。年齢も20代から70代までと、実に多様なこと驚くばかりです。
ところで、六世紀頃から中国大陸や朝鮮半島に向かって開かれていた歴史を持つ博多(那の津)の町は、いま私達が立っている地面からわずか3メートル程下に、約800年前の鎌倉時代の地層(砂地)が広がっています。その砂地が出てくると、それまで男衆が大きなシャベルを使って上げていた土を、ベテラン作業員の「おばちゃん達」が、小さなスコップを手に実に様々な品を慎重に掘り上げて行きます。
ある時は、宋代の白磁の碗が重なって出てくるかと思えば、次には欠けた瀬戸の黒釉の天目碗、或は12世紀頃のものとおぼしき井戸側に使われた桶が、痩せてその跡が砂地の上に丸く紐状に残っているもの等。それらを見ると、1000年近く前の時代と云っても、いま生きている私達と同じ人間がその時代にもいて「普通の暮らし」があった事が、物を通して妙に生々しく実感されると共に、人の想像力を大きく超える程ダイナミックな、文化や品物の交流が行われていた事に気がつかざるを得ません。
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左が西安鉢、右が安南鉢 |
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涌田窯(わくたがま)のマカイ |
つい前置きが長くなりました。今回ご紹介するのは、そんなダイナミックな品物の交流の跡が見える様な、互いに良く似た碗(鉢)三種です。一番大きなものは安南系の6寸程の焼物で、鉢と言って良い位の大きさを持つ品です。裏を返すと高台の削りが荒々しく、精気に富んで素晴らしいものです。奥の小鉢は4寸程で、現代の中国•西安(昔の唐の都•長安)で出来た型物の小鉢です。少し浅めですが実に使い易く、我が家の食卓に登場する頻度は一番かも知れません。
安南系の鉢と二つ並べて撮った写真を見ると、鉢の内側の印象もそっくりな事に気がつきます。一番手前のこれも4寸程の飯碗はほぼ300年前の沖縄•涌田窯(わくたがま)のマカイ(飯碗)です。無地でもあり静かな印象の焼物ですが、形の何処にも緩んだ処がなく、かといって外側をなぞっただけの仕事にありがちな堅さ窮屈さもありません。
これも(大量に作られたという意味で)数に裏付けられた、「名を立てぬものの美しさ」を持つ仕事の一つです。