福岡書芸院発行の冊子「たんえん」5月号掲載の「忘れられないもの2
(ここから始まった)」をお届けします。
二回目の今回は、私が具体的な現場(倉敷民藝館)で「民藝の世界」に出会った年、1972年の夏の終わりに、初めての臨時職員の仕事を終えて倉敷民藝館を辞するにあたり、生意気にも、お金の代わりに物で頂戴したい旨を申し入れて(若く無知であると云うのは、こんな恥ずかしい事が出来るのです)、外村吉之介(とのむらきちのすけ)先生(苦笑いしておられたかもしれません)から頂戴した焼物数点の内、いまだに手元に残る二点をご紹介します。
上の三寸の小皿は、瀬戸の麦藁手(むぎわらで)と呼ばれるもので、小さい品ながら呉須と鉄で引かれた線に澱みがなく見事な手際のもの。下の七寸の深皿は、柳宗悦の最初の御弟子の一人で、後に山陰地方の工人達(鳥取だけに止まらず、出雲の出西窯等)に広く呼びかけて、鳥取民藝協団を創設。時代にかなった新しい生活用具を作る、こうした新作民藝運動のみならず、それらの品を販売する為の拠点として「鳥取たくみ」を始めたり、そうやって出来た品々を用いる場として「たくみ割烹店」を作るなど、一人の生活者の視点で民藝運動に大きな貢献をした、鳥取民藝美術館初代館長で高名な耳鼻科の医師でもあった、吉田璋也氏がおよそ80年前に見出し広く世に知られる様になった
”牛ノ戸(うしのと)焼”の緑釉と黒釉の掛分皿です。近年見られる同じ様な掛分皿の仕事に比べると、窮屈さのない何処かのんびりとした風情の漂う仕事(この品が作られた当時の「時代」がそんな形で其処に刻されているのと、作り手の「手数」の違いでしょうか)になっています。
さて、今回は写真でもう一つ、東京で過ごした学生時代に私が初めて東京•国立(くにたち)の「道具屋」で買った鉄釉鉢をご紹介します。
この鉢は長野県の諏訪地方に多く見られる七寸程の鉢で、長野県松本市にある松本民藝館にも蔵品として、これの仲間がたくさん収蔵されています。不思議な事に、この鉢はどれも胴の中程に、外から内に向かって穴を開けた跡が残っています。焼き上がった後、尖ったもので鉢の外から穴を開けようとすれば、穴の周辺にひびが入るか割れるかする筈ですから、鉢を水引した後に釉薬を掛け天日で乾かしてから、尖ったものででも一気に穴を開けたものでしょうか。この穴は、どうやら、ここに紐を通し鉢を壁に掛ける為に用いたものの様です。最後に、皆様に鉢の裏に筆で書かれた仮名文字をお目にかけます。