「山本展」二日目の22日午後。山本教行さんを囲んで、あれこれのお話を聞く会をいたしました。山本教行さんが仕事を始める切っ掛けになった三人の人。吉田璋也、B・リーチ、そして坂村真民氏。この方々はみな故人になられましたが、山本さんとそれらの方々との関わりからお話を始めて頂きました。覚えている事を少し書いてみます。
まず、吉田璋也氏の事について。岸田劉生の絵が好きで、白樺派の武者小路実篤や志賀直哉、B・リーチなどの名前に親しんでいた山本少年は、当時通っていた高校の教師に鳥取市内で耳鼻咽喉科の医者である吉田璋也氏が、それら白樺派の人たちと親しい行き来があると聞いて、約束も取り付けず(思い立ったらすぐに行動する、ここが山本さんらしい処です)早速出掛けます。行ってみると吉田先生は診察中で、一段落するまで鳥取民藝美術館で展示してある物を見ながら待っているように、との吉田先生の伝言です。そこで、初めて李朝の白磁の仕事に出会います。その後、吉田先生の道具屋廻りに同道したり、鳥取民藝美術館の展示替えの手伝いをしたりする内に吉田璋也氏との師弟の縁が深まって行きます。
高校3年の夏休み。進路を決める際の手掛かりとして、出雲の出西窯(しゅっさいがま)で一夏、轆轤を引いたり登り窯を焚く手伝いをして、焼き物を自分の一生の仕事にと云う思いが深まります。そんな折、東京でB・リーチの個展が開かれると知り、高校の授業を無断欠席して(ここも直情怪行の山本さんらしい処)、ヒッチハイクで東京まで出掛けます。その折に訪ねた日本民藝館で出会った浅川園絵氏(当時、日本民藝館主事で浅川巧息女)に、ホテルに帰るB・リーチ氏の車の中に押し込まれ、車の中と滞在先のホテルのロビーで、リーチさんに話を聞いてもらうチャンスを作って貰ったのだそうです。この出会いが、焼き物を一生の仕事に、と云う山本さんの気持ちを決定的なものにします。
「念ずれば花ひらく」という言葉で有名な、詩人の坂村真民氏に出会うエピソードも不思議です。当時、一燈園にいた出西窯出身のEさんが地域奉仕の仕事で出雲に来た時、彼が残していったわら半紙に書いてある坂村真民氏の詩に感銘を受け、そこに書かれていた坂村氏の住所を訪ねます。行ってみると、氏はその数日前に建てたばかりの小さな家に移った後で、会うことが出来なかったのです。駅のベンチに座り途方に暮れる山本少年の隣に座っていた婦人が、見兼ねて声をかけます。事情を話すと、何とその婦人が坂村氏と知り合いで、電話を掛けてくれ駅まで坂村真民氏が迎えに来て下さって、無事に対面がかなったのです。それから一週間、その家に居候をする処から、坂村氏との付き合いが始まります。さて、数年が経ち、独立して焚いた窯が二窯続けて失敗して行き詰まった時、坂村真民氏を訪ねた折、そんな事情を話しもしないのに、帰りの港まで御夫婦で送ってきて下さり、いよいよ乗船の時にのし袋を手に握らせて、「教行さん、これは独立のお祝いだから。」と当時のお金で10万円という大金を下さったのだそうです。そのおかげで苦境を何とか乗りきれた、と話す山本さんの眼は潤み声が震えています。私ども会場にいる者も、思わず貰い泣きをいたしました。強く願うことの大切さを教えられた座談会でした。
その夜の事。八女の町でドキュメンタリー映画を撮っている一行、旧友を含む5人が会場の高橋家を訪ねてくれました。一緒に食事をし、お酒も呑みました。私は例によって酔いつぶれて、寝てしまいました。翌日曜の夜は、地元の八女で「手仕事ビワニジ」をやっている川島玲未さんと福岡のムーン・テーブルに勤めながらパン焼きの勉強をしている智子さんと一緒に食事をしながら12月に予定している川島さんの会の打ち合わせをいたしました。実りある話が続きながらも、まことに忙しい三日間でした。