2025年1月5日日曜日

清野謙三の事


ここ10年ほどの間に、同じ時代を生きた友人・知人の訃報に接する事が多くなりました。’24年10月4日に東京の自宅で急逝した清野謙三(きよのけんぞう)の訃報も、そうして突然もたらされ、我々友人仲間を驚かせうろたえさせたのです。それに先立つ’24年の4月中旬、随分久しぶりに、清野謙三も交え古い仲間八人が集まって皆で愉しく会話し食事を楽しんだ、そんな記憶も消えない内だったからです。報せからひと月程後の11月15日に、宗像市の実家近くの菩提寺で営まれた葬儀には、先の仲間六人が参列し故人の冥福を祈りました。

ところで、本日1月5日で76歳の誕生日を迎えるはずであった清野謙三との交友が始まったのは、遡る事40年前の1985年頃からの事です。自身で小さな場所を借りて、E・サティのピアノ作品を紹介したり或いは自作の曲の(日頃の穏やかな彼からは想像出来ない一種過激な)即興演奏などの音楽の催しを、時に、聴きに出掛ける事はありましたが、それ以前の、彼が音楽で身を立てる術を模索し、他の音楽仲間と共に音楽活動をしていた20代から30代初めの事は、彼の口から断片的に聞いているだけで、未だに詳しい事は全く知りません。

知り合って間もない頃、自分が作りたい音楽は山本教行さんの作る陶器の様な工藝品でありたいと願っているという彼の言葉も、今では直に尋ねてその真意を聞く事も叶わず、正確な意味がもう一つ明らかではありませんが、今だに私が忘れる事の出来ない印象深い言葉です。知り合った頃は、歯医者を生業とすべく九州大学に入り直し、卒業してしばらく経った頃ではなかったかと思います。その後の約10年、福岡で勤務医を続け、その間は私も患者として世話になりました。のちに、音楽的な刺激や環境を求めて東京に移ってからは、たまに帰省する時に話をする位で交友は途絶えがちでした。

さて、清野謙三との出会いがなければ実現しなかった出来事が三つあります。一つ目は1990年5月、あまねや工藝店開店10周年記念に初めて外部のギャラリーを借りて催した「山本教行作陶展」開催の折、記念事業の一つとして会場のギャラリーで催した彼担当のキーボードを含む、3人の演奏家による自作曲の小さな演奏会で、これは山本教行の仕事に捧げる自作の詩を書くほどの熱の入れ様でした。二つ目は2年後の1992年6月、同じギャラリーで行なった第一回「大澤美樹子個展」の時に、作曲家としての清野謙三に「大澤美樹子個展会場のための音楽」を依頼した事で、開催期間中二台の再生機器から小さめの音量で会場に流された音楽は、あたかも波の動きを思わせる様に曲のモチーフが重なったり離れたりしながら会場に漂い、そこに下がる大澤美樹子の型染布諸作を始め、林栄一の朝鮮五葉松製の長椅子やチェスト、更に会場のそこかしこに置かれた山本教行の大小作品群の印象とも相俟って、会場全体が「只々気持ちが良かった!」、思い返す度ごとに、今もそんな心地良い生理的な記憶として蘇ります。

最後の一つは、私や清野謙三を含む5人の仲間で作った「フーム空間計画工房」主催で1994年(?)秋に行なった、都市環境における音(音楽)の問題を考え問題提起する趣旨で、環境音楽の作曲で知られた(葉山の神奈川県立近代美術館・館内音楽等)故 吉村弘氏を招いて行なった講演会で司会とピアノ演奏を引き受けてくれた事で、これも彼抜きでは開催は困難であったと思います。思い返せば一人の友人 清野謙三との縁が、その時々の時代に私が行なったまわりの社会(世界)への働きかけを具体的に形にするにあたり、これ程の深い関わりを持っていたと云う事を、書きながらいま改めて思い返し、感謝の気持ちを込めて此処に書き記すものです。「死ぬまでに自分の”白鳥の歌”を一曲だけ作ってから死にたい。」と言っていた彼が、その”白鳥の歌”を果たして本当に作曲出来たのかどうか、今ではわからぬままです。ともあれ、清野謙三君、本当にありがとう!お世話になりました。

2025年1月2日木曜日

あけましておめでとうございます。

あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。今年の正月は穏やかに晴れて良い日和になりました。昨年12月29日の催事前期展が終了後、私は滞っていた掃除や片付けを大急ぎで済ませ、細君はレモングラスで注連飾りを作り、何とかお節の準備も済ませて、無事に家族で正月の雑煮を祝う事が出来ました。今日二日の夕空は、澄んだ空気の夜空に三日月と金星が輝き、まことに印象的な美しい空です。今年一年が、皆様方にとって良い一年であります様に願っております。