2006年11月に埼玉県浦和の柳沢画廊で始まり、その後の2回(2008年と2009年)を、開催場所も鹿児島 • 唐津 • 日田 • 福岡 • 長崎そして再度浦和と、九州を中心に様々な場所 • 地域で行ったあまねや工藝店と小鹿田焼 坂本工窯による共同作業としての催事、「抽象紋の皿100」「模様の発見」「標準の提案」、これら三つの催事の内、とりわけ最初の「抽象紋の皿100」展は、10年以上の時が過ぎた今振り返ってみても、感慨ひとしおのものがあります。それは、私(売り手)と坂本工(作り手)が立場の違いを超えて協力し、お互いが出来る事を持ち寄って「小鹿田焼が提案する、今のそしてこれからの食器の可能性」を具体的な催事の形にして(大げさな言い方をお許し頂けるならば)世に問うた、その事です。これは双方にとって、真に意義深い試みだったと思っています。以下にそれを述べてみます。
そもそも、注文生産が原則の小鹿田焼は、作り手が受けた注文に応じてそれらの品を注文主に納め、焼き損じ等を除くほぼ全量が現金に変わります。その繰り返しで(坂本工窯であれば)1年に5回の窯を焚き、生業としての仕事が続いて来た訳です。
事実この頃、坂本は料理研究家 辰巳芳子さん創案の擂鉢三種の制作に忙殺されていて、それさえ作っていれば家業は安泰であった筈なのです。それを自ら引き受けた仕事とは云いながら、この催事では、売れる見込みの立たない品々をたくさん作り、個人作家の真似をして展覧に供する等、生業としてのこれまでの仕事のやり方から大きく逸脱した行為として、身近な人達から非難されても仕方がない処です。
しかし、300年続いて来た民窯だからと言って、これまで作り続けて来たものを繰り返し繰り返し、只々作ってさえいれば良いと、必ずしも私は思わないのです。むしろ、民窯であるからこそ、いま生きている自分が何を作り、どうすれば、それを普通の人達の日々の暮らしに役立つ物として使う人の元に届けられるか、という大きな問題を「自分の頭」で考え「具体的な形」にして行く事が、「作り手」にとって欠かせない大事な営為だと思うのです。その意味で「抽象紋の皿100」展の場合、売り手の私が用意した「参考品」としての古今東西の様々な品を一つの手掛かりとして、苦しみながらも、一年がかりで催事用の尺一寸皿
100枚を準備しおおせた、坂本工の努力に敬意を表したい、「イヤー、良くやったね!」と今も言いたいのです。私にしても、これまでの小鹿田焼の歴史を考えれば、一(いち)売り手の立場で、新作に安易に関わる事は厳に戒められるべき事であり、その自覚を持って事に臨むべきなのです。坂本工の「あたま」にも「手」にもならず、「眼(参考品)」に徹してもの言うべし、これがこの時、私が私自身に課した立位置であったつもりです。結果それが、坂本自身による大皿への” 打ち掛け ” や ” いっちん ”と云う、古くて新しい加飾の「発見」にも繋がって、私を嬉しがらせてくれました。
2008年11月の2回目の催事「模様の発見 唐津展」準備の日に、白掛無地の睡蓮鉢でその年の日本民藝館展最高賞である「日本民藝館賞」受賞の報せを聞いて、その場に居た皆で歓びを分かち合った事も忘れられない思い出です。