2010年10月31日日曜日
百子の花日記 80(番外編)
10月4日の事。通過するジェット機の音で目が覚めました。頭がボーッとして・・。「いま何時だろう?7時40分!アッ、困ったどうしよう!」起き上がろうにも慌てていて、足許がおぼつかない。挙げ句の果てに、余分なものまで引っくり返す始末。
今日は、生協の仲間と行く「西鉄バスハイク」の日です。バタバタ走り回りながら、片方の冷静な心が「ゆっくり考えよう、百ちゃん!」と指示を出します。「博多駅バスセンターに8時10分の集合時間。どうしよう間に合わないよ!止めた方が良いよ!」でも、基山パーキングエリアに8時30分迄に到着出来れば、何とかなりそうです。
結局、駄目元で、タクシーを「高速・筑紫野バス停」まで飛ばしました。しかし、やって来たバスは基山パーキングエリアには止まらないとの事。万事休す!そこへ、先にバス停に来て待っていた男性の処へ、白い車が・・。その人は車の中へ。そこで、「基山まで乗せて頂けませんか?」と言った私に、最初は「駄目!」のサイン。でも、運転している人が「どうぞ!」とドアを開けて下さり、基山まで乗って行ける事になりました。「やったー、これで高千穂に行ける!」おかげで、無事に基山で仲間と合流出来ました。お礼を差し出した私に、彼らは「方向が一緒でしたから!」と名前も告げずに去って行きました。
朝っぱらからヒッチハイクをした私は運良く、「高千穂パワースポット巡り」に行く事が出来ました。
さて、上から3枚目と4枚目の写真(高千穂神社境内)、皆さんには何に見えますか?
ちなみに、1番目の写真は阿蘇・田園風景。2番目が、高千穂峡・真名井(まない)の滝。5番目は、豊後高森から見た夕陽。
2010年10月29日金曜日
2010年10月27日水曜日
2010年10月26日火曜日
北の手仕事展に寄せて
「盛岡・光原社」及川隆二氏の選品になる数多くの東北の手仕事を、会場に並べてみて感じたのは、味わい深くまた美しい“土地の言葉”(方言)で、あちこちから話しかけられている様な気持ちにさせられた事です。「それがどうしてなのか?」を考えてみると、これら一連の手仕事には、その裏付けとして、確実にそれぞれの土地の暮らしが反映されている事が、大きな理由かもしれません。
さて、盛岡市内丸に光原社の支店の一つ、北ホテルの中の「北の光原社」があります。ここは本店の“しつらえ”と違って、RC 造のモダンな空間の中に選ばれた工藝品が注意深く並べられていて美しく、私の憧れの民藝店です。今回、店の二階に品物を並べてみると、まるで小さな「光原社」の様に見えて嬉しくなり、私はここを「うえ(二階)の光原社」と名付ける事にしました。
BANGALOW日記 3 “Kids’ Movie Night”
朝帰り
23日から始まった「北の手仕事展」の“もの並べ”を始めたのは、前日・22日の午後3時を過ぎていました。
案の定遅々として進まず、なんとか目処がついたのは午前2時過ぎ、自宅に帰り着いたら3時を過ぎていました。翌日、無事に初日の幕を開けられはしたものの、会期直前に来福が決まった光原社の及川さんが、パーティーを始める前「東北の手仕事」について話をして下さる事になり、急遽、友人達に連絡を入れた結果、10人程の人達に集まってもらう事が出来ました。
光原社の始まった経緯として、及川さんの祖父・及川四郎氏と宮沢賢治の関係から、「注文の多い料理店」や「春と修羅」が出版された事。その本が大量に売れ残り、借金(その当時家が一軒建つほど)の返済に苦労した事。でもその事自体、大変に面白い経験であったと、四郎氏が述べていた事。その縁(四郎氏と賢治は、花巻農林の同級生)で「光原社」と云う名前を、宮沢賢治がつけてくれた事。又、ホームスパンやこぎん刺しなど、東北の工藝品がその風土と大きな関わりを持つ中で生み出されて来た事などを、お話しして下さいました。及川さんがお帰りになった後も延々とパーティーは続き、パーティーの後片付けをして、仮眠をとり自宅に帰り着いたら、朝の5時を過ぎていました。
2010年10月20日水曜日
BANGALOW日記 2
下の娘の実輪は6ヶ月のときからオマルでうんちをしています。10ヶ月になる彼女は最近トイレに行きたくなると、“ううーん”と顔を真っ赤にしていきみ、私を見上げます。そのサインがでると、早速オマルの上に座らせます。うんちをしているときは“プープー(poo poo)”、おしっこが出たときは、“ツーっ、ウィーウィー(wee wee)”っと同じ言葉を繰り返し、本人に今体が何をしているのか分かるようにしてあげます。こうすることでトイレに関係する下半身の筋肉の動きを早くから認識できるようになり、おむつも早くはずれます。
ある日新聞で読んだ記事を参考にふと思いついて始めたことが、今はすっかり普通のことになり、夫のモーガンも実輪をトイレに連れて行くことが出来るようになりました。おむつを使う量も減りましたし、きちんと排泄物が本来いくべきところに行っているということを考えただけでも、変なことですが、気持ちがよくなります。
市販のおむつは分解されるのに、なんと1枚につき500年もかかるのだそうです。しかもいろいろな化学薬が生産に関わってくる訳ですから、赤ちゃんの繊細な肌への影響や安全性が懸念されます。ようやく広がってきた“おむつなし育児”、もっと認知されると良いですね。
2010年10月17日日曜日
2010年10月13日水曜日
丹波から
今日、丹波のHさんから枝豆が届きました。11月に岡山で個展の予定があるHさんから、丹波産の枝豆(自家栽培か?)が送られて来ました。早速、夕食の膳で茹でたものを食べてみました。普通の品より大きめで、しっかりした歯ごたえと味です。美味しかった!Hさん、
有難うございます。当店で再来年の秋に個展を予定しているHさんですが、それまでに色々な物を見てもらい、可能な限り、自らの仕事の間口を拡げて欲しいと願っています。11月の来福時にも、埋蔵文化財センター訪問など、機会を設けて、あちこち見て貰うつもりです。
ところで、この枝豆が丹波産の黒豆と同じ物(と云うより原材料と云うべきか)だと、皆さんは御存知でしたか?茹で汁がうっすら赤くなり、私は驚きました。
暑かった夏のち変な秋
2010年10月11日月曜日
いっちんの仕事 二種
私の身辺に有るもので、いっちん(スリップと呼んでも良い)の新しい仕事を二種類、お目に掛けましょう。一つは、岩井窯・山本教行作の長角皿で、柿釉の地に黒の化粧土で模様を描いたもの。残る一つは、小鹿田焼・坂本工窯の尺一寸皿で、白い化粧土で皿全体に模様を描き廻したものです。一方は、個人作家として、自らの仕事を常に振り返る中から生み出されたもの。もう一方は、自らの仕事の“根”を意識しながら、繰り返される仕事の中から生まれたものです。
山本さんの仕事は、いまから12、3年前にさかのぼり、柿釉の地に黒の化粧土の仕事をさかんにやっていた頃のもの。この時の仕事の中に、友人のTさん一家所蔵の見事な九寸皿があり、今でも私の欲しい物の一つになっています。
坂本さんの尺一寸皿は、2006年の浦和・柳沢画廊に於ける
“抽象紋の皿100展”の時に、初めて試みられたものです。
始めた頃は、ひどくたどたどしい仕事振りで、自転車にたとえれば、補助輪をつけないと倒れてしまいそうな幼児の自転車乗りに似て、
どこか危なっかしいものでした。それが、3年目を過ぎた頃から、
実に楽々(の様に見える)と描ける様になり、いっちんのパターンも増えて、ここ数年続けて来た“小鹿田焼・新作の試み”の、大きな成果の一つと言っても良い位の仕事に成長しました。
2010年10月8日金曜日
百子の花日記 77(番外編)
10月7日。 美味しいものがやって来た!!岡山のOさんから、京都・和久傳のちりめん三種を頂きました。そして、八女の朝日屋酒店のTさんからは、会員頒布用(一口)の「繁枡」特製吟醸酒二種と、T夫人のお里からの無花果。早速皮を剥いて、シロップ煮にしました。我家の栗で、栗きんとんも作りました。もう一つ、渋皮煮はただいま準備中です。ちりめんは、炊きたての白いご飯で頂きましょう。食べぬうちから、ほっぺが落ちそうです。Oさん、Tさん有難うございます。
10月8日。 今日は寒露。暑さ寒さも彼岸まで、とはよく言ったものです。このところの冷え込みで、朝晩めっきり肌寒くなりました。晩秋に向かっている様な今日の雨です。クリーニングに出した絨毯が配達されたので、冬支度に模様替えです。今日は大変な一日でした。
2010年10月7日木曜日
BANGALOW日記 1
2010年10月6日水曜日
「第4回 北の手仕事展」のお知らせ
10月23日(土)より31日(日)まで、4回目になる「北の手仕事展」を開催します。実に、5年振りになります。1回目の’99年の開催時、山葡萄の籠を求めてお客様の行列が出来たのが、夢の様です。
今回も、その籠類を始め盛岡・蟻川工房のホームスパンのショールやマフラーを始め、光原社工房の漆器類、また裂織の仕事や、南部鉄器まで。代表的な、東北の手仕事が勢揃いします。23日午後7時からは、一品持ち寄りでオープニングパーティーを行います。どうぞお出掛け下さい。以下は、催事DMの案内文です。
ある年の秋、宮城県の鳴子で漆器工房を主宰しておられた澤口滋さんを、お訪ねした時の事。用が終わり、私がこれから秋田県の川連(かわつら)まで行くとお話ししたら、鬼首(おにこうべ)の峠を越えて、秋田県の秋篠町まで送って下さると云うのです。秋篠町には、高名な建築家・白井晟一(しらいせいいち)の若い頃の代表作の一つ「秋篠町役場」があるのです。職人さんの運転で越えた鬼首峠は、全山真っ赤に紅葉して、実に素晴らしい眺めでした。忘れられない思い出であると同時に、こんな素敵な人達が住んでいる東北地方を、私は大好きになりました。さて、この度「北の手仕事展」と題して、5年振りで東北地方の手仕事を多数見て頂く事になりました。出品は、ヤマブドウやアケビの籠類、裂織に南部鉄器、漆器、ホームスパンなど。催事開催にあたっては、今回も「盛岡・光原社」のお世話になりました。厚く御礼申し上げます。
2010年10月5日火曜日
2010年10月4日月曜日
盗作と模倣について
数年前の事。ある公募展で「文部大臣賞」を授与された絵画が、現存するイタリア人画家の作品そっくりだとして、全国紙数紙に写真入りで大きく報じられた 事があります。覚えておいでの方もあると思います。その写真を見る限りでは、モチーフといい構図や色彩まで、なるほどそっくりです。その折りの、この日本人 画家の釈明は「イタリア人画家を深く尊敬しているので、結果として似てしまった」云々。これが、言い訳けとして認められる筈もないのは自明の事です。一人の人間が、与えられた能力と時間を駆使して生み出した “ 表現 ” に、“ 自分の看板 ” を掛けて私し、またそうする事で、自身の利益を求める事。これはどう考えても、私には犯罪としか思えません。
ところで、画学生の教育法の中に、古今の名作を自らの手で模写する事によって、空間構成や構図また色彩などを学ぶ方法が有るのは、広く知られています。書で云う「古典」の臨書 も、また同じ狙いからでありましょう。工藝の世界でも、まず真似る処から始まるとはよく言われるところです。民藝の世界で大家(たいか)と呼ばれている作家達も、李朝の “ 呉須三段重函 ” やイギリスの “ スリップウェア ” などを手本に写し、東京・駒場の日本民藝館に作品を残してい ます。河井寛次郎・濱田庄司の二人共にこの三段重函を写していますし、河井はスリップを象嵌の技法に置き換えて、表現したりもしています。そして、それは私の見るところ、見事に河井の 仕事になりおおせています。
濱田もスリップの仕事をやってみてはいるものの、一連の大皿の “ 流し掛けの仕事 ” へ舵(かじ)を切り、自分の仕事を発見しています。
ここで、後に「彼らがスリップウェアの仕事をやらなくなったのは何故か?」を考えてみるのは、興味深い事です。思うに(たぶん)スリップの技法そのものが 、“ 意匠 ” として余りにも魅力的で強力すぎる事、したがって何をどうやっても上手な真似にしかならない事、であれば作家としての表現をそこに重ねにくい事 などが考えられます。
一方で、焼物を仕事にする人間にとって、このスリップが意匠としてどんなに魅力的であるかを示す出来事(事件)が顕著になったのは、 2004年「芸術新潮4月号」紙上に、丹波の陶芸家・柴田雅章氏が永年の研究と努力の成果である、“ スリップの技法 ” を発表してからです。以後数年、ス リップの技法に基づく出品作が、公募展の中に異常に多くなったと聞きました。そして、今もその影響は続いています。
さて、工芸の世界がまず模倣から始まるとは 言っても、「これは、あんまりだ!」と思う仕事が大手を振ってまかり通っているのが、最近の「民藝」の世界です。その 代表格が、九州地方のある伝統的な窯のA君の仕事です。3ヶ月程前にも、全国誌「ブルータス」に(特集タイトルが “ 民芸とミヤゲモノ ” と言う面妖なものでした)大 きく 取り上げられたりしていて、A君の仕事が、あたかも公に認知された仕事の様に見えます。罪が深いのは、このB誌に代表される一部のメディアと、A君の仕事 を買い続ける民芸店、そしてそれを許容する(と云うより、何も言わない) 日本民藝館や地元の民藝協会でしょう。
丹波の柴田さんが作る焼物の “ そっくり さん ” で有名なA君の仕事ですが、柴田さんが生み出した “ スリップウェアの意匠 ” だけでなく柴田さんのポットも、あるいは鳥取の山本教行さんの珈琲カップの形と意匠( 一昨年、人吉の魚座民藝店で見て山本さんの若い頃の仕 事だと思い、私も見事に騙されました )まで真似ていて、ここまで来ると、厚かましくも見事なものです。300年先には個人の名前は残りませんから、将来の民藝 の世界( 残っていたとして )では、むしろ “ 良い 仕事の見本 ” として取沙汰されるかもしれません。皮肉なものです。
しかし、いやしくも民藝の世界で仕事をしようとする人間であれば、浜田庄司が「生きている作家の真似はするな!古い仕事に学べ!」と云い残している言葉を、深く己の肝に銘じ常に反芻すべきでしょう。
昨年、東京でお会いした時にA君の仕事を評して、「危険信号」と言っていた柴田さん、これはもう立派な「赤信号」ではありませんか?
2016年3月18日 追記。昨年のオリンピックエンブレムの盗作問題を機に、私のこのブログを見て下さる方の数が増えました。そこで、前から気になっていた文章に少し手を入れました。