数週間前、私が40年来の会員である地元生協の注文用パンフレットに、漆器を含む「正月用品」の紹介記事が掲載されました。仕事柄気になる領域でもあり、目を通してみてその値段に驚きました。例えば、汁椀につけられた以下の一文「〜 木の汁椀で心も体もあったまろう。〜 」、それに続けて「国産の[とち材]に漆をたっぷりとすり込み、木目を活かして職人がていねいに仕上げた手作りの汁椀です。」横に小さめの写真で、職人らしき人が椀の内側に漆を塗る写真と椀の断面図が示されており、そこには、口あたりの良い薄いフチ、飲み干しやすい曲線、手になじむ曲線、の説明の他、内側は熱に強い朱うるし」とあります。説明から推測すると、椀の外側がいわゆる拭き漆で木地の木目を活かした仕上げ、椀の内は朱漆を塗った汁椀の様です。朱うるしが特に熱に強いものであるとは知りませんでしたが、しかし、それにしても安すぎる値段(税込で3278円)で、どうにも得心がいきません。この添え書きを信じれば、おそらく椀生地の材料である栃材をアジアの何処かの国へ輸出し、その後、加工された椀木地(ひょっとすると、下地と中塗り位まで終えた)を輸入して国内で上塗りをしたものを、こうして生協の会員に紹介しているのかもしれません。そうとでも考えなければ付けられない値段です。
生協の注文を受注する産地の問屋は、価格競争に負けないための工夫として生産拠点の一部を海外(主にアジア?)に移し、工賃を国内の10分の1以下に抑えて、下地や中塗りの技術を現地生産者に伝え、国内では最終工程の上塗りだけを行なって「国産品」として流通させるのかもしれません。ただ、これは何も漆器に限らず、私たちの身の回りのありとあらゆるものがそういう仕組みの中で生産され流通している訳で、この事自体何も特別のことではない、という方もあるでしょう。しかし、この取り組み(地元問屋の生産流通から生協に於ける販売に至るまで)が漆器産地の現場にもたらしているものは、以前このブログで紹介したように、作り手の高齢化、大半の後継者の生業放棄、結果、産地の崩壊です。この現象を、50年以上前の1964年、漆器作り(漆工)に様々な形で関わる人々が、その展望をつかむ為に結成された「明漆会」を主導して来た鳴子の澤口滋氏(故人)は、その生前に書かれた小さな冊子の中で、次のように表現しています。
「私たちは日常の生活の道具としての椀や盆を作り続けたいと思っていました。剥げたり反ったりせず何時までも使える異和感のない いつか生活の中に溶解していくような皿や鉢を作り続けたいと思ってきました。 しかし そのようなぬりものを作るのに必要な材料が入手しにくくなり質も落ちていることに ある時期気づいたのです。<中略> 漆をはじめ色々な素材の不足は一時的な現象ではなく工業化してゆく社会の必然的な帰結であることを 私たちの仕事が沢山の人々の多様な技術と労働の上に成り立っていることを理解しました。真実なけなしの技術と材料を使ってなお漆器を作り続けるとしたら 今日における漆器とは何かを流通に当る人を含めたすべての関係者と共に 自らに問い続けたいと思います。<後略>」( ©︎ 明漆会 )
この小文が私たち生活者(使い手)に問うているのは、「あなた方が真実、漆器を必要とし、この仕事がこれからの日本に必要であると思うのであれば、これを残す為どうすれば良いか、自身で考え実行して欲しい。」と云う事でしょう。具体的に言うと、生活者個人の立場では一人でも多くの人が、日常生活に食器の一つとして漆器を取り入れ、使う事に尽きます。これを販売面において、持続可能な具体的な仕組みに作り上げ、これまでの生産流通システムにつなげるのは、とても難しい事でしょう。しかし、英国などにはその先行例もあり、この実現への努力がいま切実に私達に求められているのだと思います。
冒頭の生協パンフレットに私が感じた違和感とは、口の中に入れる食物に関しては(主に国内の)良心的な生産者を後押しして(つまる処、市場価格よりも高値で買い支えて)来たこの団体が、他領域ことに生活用品に分類される品々に関しては驚くほど鈍感で、その領域の仕事が抱える問題に対しての想像力が全く感じられない、この事です。生協の組合員数の規模を持ってすれば、漆器の仕事の仕組みを地道に説いて漆椀に付いている値段の根拠を説明し、妥当な値段(当然、前出のパンフレットよりも高価です)の漆器用品の購入を組合員に促し、日本国内の漆器産地維持に協力する事、これもまた生活協同組合に期待されている、大きな役割の一つなのではないでしょうか。まずは、理事会で漆器についての勉強会でも始めたら如何でしょう?
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