2010年8月31日火曜日
百子の花日記 65
“ばーば”のトウモロコシ
2010年8月8日日曜日
百子の花日記 64
8月8日(立秋)。ツクツクボウシが鳴き始めました。庭では、数の少ない、夏エビネ、つりがね人参(鳥取・岩美町産)、ヒオウギ、山ほどある金水引、赤水引、ムクゲ等が咲き始めました。薮庭の手入れをしたいのですが、蚊の猛攻撃に勇気が出ず断念。でも、お盆の準備もしなければならないので、2、3日うちには草刈り決行です。
朝の事です。顔を洗いガラガラとうがいをしていると、上の方からガラガラとアカゲラの様な声がします。私が止めると、そちらも止める。また、ガラガラやると、相手もガラガラ。“アカゲラは、いまころ里に居るかしら?”と思いきや、頭上で鳴いているのは、 カラス!
馬鹿にされてしまいました。おまけに、夕方には赤子の泣く鳴き声まで真似るのです。イヤな奴!
7月21・22日。遊び友達に誘われて、毎年恒例の水遊び。壱岐に行きました。観光して、海の幸をたくさん食べ、勝木から辰ノ島へ渡って泳ぎました。砂浜がきれいで、海も美しい。島には、珍しい植物や照葉のいばらがありました。外海はコバルトブルー、入り江の海水浴場はトルコブルーと言ったのですが、友人にここの海は??ブルーと言われた??を忘れてしまい、今日まで19日間も思い出せず悩んでいたのです。毎日新聞・日曜版「映画に生きて、生かされて」で原田美枝子さんの聞き書きを読んでいて、「プルシヤンブルーの肖像」と云うホラー映画の題名で“アッ、これこれ!”と思い出したのです。
??マークは、プルシヤンブルーでした。Yoshiが、箱根駅伝・山梨学院大学のたすきの色だよ、と教えてくれて、ぼけ解消!
コナ石鹸と林檎
店を始めて、あまり日が経たない頃の事。コナ石鹸を店で売りたいと思い立ち、東京で暮らしている時に使っていたミヨシ油脂のコナ石鹸を探しました。それが切っ掛けで、当時ミヨシ油脂の福岡支店にいた千葉出身のSさんと親しくなり、コナ石鹸を広める為の広報活動(平たく言えば、情報誌Fの読者に無償でコナ石鹸を提供する)にずいぶん協力してもらいました。それが力になって、コナ石鹸使用者が増えたと云う事も、実はありませんでしたけれど。後になって知人の一人から、コナ石鹸は希望者が少なかった為、葉書を出せばだいたい手に入ったと云う話を聞き、がっかりした事もあります。
また、「暮しの手帖」に掲載された記事を読んで、津軽の片山りんご園の「無袋ふじ」を、店で売っていた事もあります。4、5年は続けたでしょうか。結局、専用冷蔵庫もなしで、たくさんの林檎を売り切れずに断念したのかもしれません。しかし、うまくいっていれば今頃は、「あまねや工藝店」でなく、「あまねやリンゴ店」になっていたかもしれない訳ですから、良かったのか悪かったのか、はてさて・・・。
どうすれば、暮らしと仕事を矛盾なく重ね合わせていけるのか、そんな試行錯誤の毎日の中で、迷いながらやっていた頃の事です。
2010年8月7日土曜日
野間吉夫さんの事
福岡に帰って店を始める決心をした1978年の事、事前に幾人かの人に相談をしました。その中の御一人が、当時の福岡民藝協会会長・野間吉夫さんです。柳宗悦から、民藝の世界の「九州鎮台」と評される程、戦後の雑誌「民藝」紙上を舞台に、故郷である鹿児島の苗代川や佐賀の多々良(たたろう)、また九州の荒物や佐志の葛布などについて健筆を振るい、当時残されていた九州の民藝の仕事に光を当てたと云う意味で、大きな功績のあった人です。
六本松にある九州大学教養部キャンパス(当時)の裏手、小さな土蔵付の小住宅が野間さんのお住まいでした。玄関を上がると廊下の奥が居間になっており、そこに通されて一通り話を聞いて頂きました。
野間さん御自身、戦後間もない頃、玉屋デパートの美術画廊で「バーナード・リーチ展」などを手掛けた経験からか、福岡で「民藝店」をやるのは難しいから止めた方が良い、との御忠告でした。
後に、この忠告が間違っていなかったと云う事を、私自身思い知らされる事になる訳ですが、結局はせっかくの御忠告を無視して、「あまねや工藝店」を始める事になります。
野間さん亡き後、残された籠類など荒物のコレクションは、まとめて福岡市博物館に寄贈されていますが、今に至るまで、それらが並べられたと云う話を聞きません。写真は野間さんから頂戴した色紙。
2010年8月6日金曜日
28年前の“学びの”夏
1982年8月6日。その当時の西市民センターの一室で、東京から講師の山本まつよさんを迎えて、第1回「子ども文庫の会」初級セミナーを開きました。前年の’81年に、あまねや工藝店の催事として行った「フィリピンの手」 展で、講演会講師として御招きした山本さんの、フィリピンの手仕事に関する講演を聴いた友人5、6人が、その講演会の折の話だけを手掛りに、セミナーの世話人を引き受けてくれたうえ、人集めから会の実務に至るまでを手伝ってくれたおかげで実現したものです。
つまるところ、それは何故だったのか?想像するしかありませんが、植民地としての長い歴史を持ち、また島の数が7000余りとも言われるフィリピンの、そこに暮らす人達と暮らしの中から生まれて来る健やかで多様な工藝品に対する山本さん御自身の“敬意”が、ありありと伝わって来る様な講演会の話の中に、山本さんの“人となり”を見極めての事だったのでしょう。そしてまた、世話人各々が、これから本を読み始めようと云う年齢の幼児を持つ、若い親であった事が決定的だったのかもしれません。しかし、人集めは大変でした。何より大変だったのは、誘う側の私達もその“セミナー”を聞いた経験がない事です。当時、発刊されて間がない「子どもと本」の福岡近辺の読者リストを送って貰ったり、同じ年頃の子を持つ友人、知人に声を掛けたりして、35人程の参加者を集め、なんとか開催にこぎつけました。
セミナーは3日間。一日に2コマづつで、「絵本」から始まり、「わらべうた」、「詩」、「日本の昔話」、「西洋の昔話」、最後が「ファンタジー」の順に進んで行きました。
山本さんによれば、大人である私達にとって一番わかりにくいのが、絵本なのだとか。それは子どもと違い、私たち大人が絵本を判断する場合、それが名の通った作者の描いたものであるとか、有名な出版社から出版されているものであるとか、およそ絵本の良し悪しとは直接関係がない“知識”や“自らの思い入れ”あるいは“一種の感傷”に依存していて、ひどく観念的であるからなのだそうです。まずは、参加者が持ち寄った絵本を一冊ずつ読みながら、この本のどこを良いと思ったか、駄目だとすればそれはどうしてか、皆で検討を加えていきます。
自らを省みて、正直にお話し致しますが、このとき皆の前で自分の考えを話す事で自身に問われているのは、皆の前で間違った事を言いはしないか、あるいは講師に突っ込まれて答えられなかったら恥ずかしいとか、そんな自分の中にある“けちな自尊心”をどう克服するか、にひとえに掛かっています。これを守ろうとすれば、“何も言わない”と云う選択しかありません。
事実、セミナー開催中に講師の山本さんから意見を求められても、みな黙ってしまって何の意見も出て来ない事が度々でした。目の前に差し出された問題を前にして、立ちすくんでしまう自らの情けなさ。
“子どもの本”を読もうと思えば、お互い裸になって、正直に(これが難しいのです)考えた事、感じた事を話すしかない、とも言われました。子どもの様には読めないとすれば、われわれ大人は評価の定まった本を一冊一冊丁寧に読んでいくしかありません。
つまづき転びながら、3日間のセミナーを終えて身の内に残ったのは、知らない事を教えてもらえた充実感と云うより、一種の“強い風”に自らを吹き倒された様な気持ちの良さでした。その後、セミナー自体を続けていく為、われわれ世話人の周囲への働きかけを、傍で見ていた山本さんから、「福岡には、子どもの本を読みに来ているのであって、社会運動をしに来ている訳ではありません。」と釘を刺されたり、様々な事がありました。数年後、熊本で同じ様にセミナーが始まり、また年に1回であった福岡でのセミナーが3回に増えたりしながら、雨の日にも大風の日にも休まず、25年続きました。