2010年4月30日金曜日
百子の花日記 50(番外編)
黒煎り玄米コーヒー
今年2月半ばの事、催事の折に時々お花を頂くHさんが、昨年暮れから体調を崩され、なかなか元に戻らないと聞いて玄米コーヒーを作ることにしました。ストーブに鋳物の鍋を掛け、無農薬(ここが肝心)の玄米を洗わず真っ黒く(しかも、はじけさせない様に)なるまで煎り上げます。ガス台を使うと、とろ火で1時間半くらい。ストーブですと、まる1日(手はかかりません)。米を洗わず、芯まで黒くするのがこつです。煎り上がった玄米1カップに水を10カップ加え、三割くらいまで煎じ詰めます。コーヒーの様な色の飲物になり、熱いうちに頂きます。苦みがあり、しかもまったりした美味しい玄米コーヒーが出来ました。さあー、頂きましょう。
老廃物や毒素を体の外に出し、細胞に活力を与えると「東城百合子著・自然療法」にありました。つごう4回ほど作りました。Hさんも元気になられました。
2010年4月26日月曜日
2010年4月25日日曜日
第2回 子どもの本や出張販売 無事終了
2010年4月19日月曜日
百子の花日記 48
静子さんのチューリップ
2010年4月17日土曜日
2010年4月14日水曜日
立花英久塑像展の顛末 3
催事開催まで一ヶ月をきる3月13日、ぎりぎりのタイミングで小さめの塑像6点が送られて来ました。一目で梱包に不慣れな、でもそのぶん送り手の必死な思いが伝わって来る様な様子の、たくさん詰め物が入った大きめの箱です。その翌日の午前中、撮影の為にスタジオTのFさんのところへ。3カット撮ってもらったものに文章原稿を添えて、デザイナーのI君のところへ送信。写真面のタイトル文字を、私が貰った立花さんからの手紙に書かれていた文字を、そのまま使う事にして出来上がりを待ちました。I君が忙しい時期であったらしく、校正原稿がなかなか上がって来ません。ようやく1週間目に送られて来た原稿から、写真面に使う塑像は、私が最初に見た塑像のイメージに一番近いものを選び、そのまま印刷会社に入校。「村松学吹きガラス展」の会期と重なっていた事もあり、案内状の受け取りが3月最終週の火曜日30日に。翌31日に、100部を立花さんへ急ぎ送りました。
初日前日の4月9日、朝8時30分。空港まで立花さんを、お迎えに行きました。聞けば、前日8日に大きめの荷物2ヶ口を、航空便で出したのだとか。DMをお送りする時に、心配だったので、段ボールシートを使った梱包のやり方を図に描いて、一緒にお送りしたのです。ほぼそのやり方通りで、上手く梱包が出来たようです。さて、私の車でいつもの太宰府裏道コースへ。「太宰府政庁跡」から「観世音寺」、そして「戒壇院」を廻って、我が家で珈琲を楽しんだ後、荷物の開梱の為、あまねやへ。時に1000点を越える“小鹿田新作展”からみれば、34点で楽に並ぶと思いきや、これがなかなか難しいのです。結局最終的に並べ終わったのは、金曜の12時近く、ヤレヤレでした。11日のギャラリートークには、12、3人の方々が参加して下さいました。長男Aが聞き手、立花さんがそれに答える形で、立花さんの“映像の仕事”から“塑像の仕事”への道筋を話してもらいました。実に面白い話で、立花さんの“映像の仕事”あるいは脚本や舞台の仕事が、そのまま“塑像の仕事”に“根”でつながっている事が確認出来て、まことに有意義な時間になりました。
立花英久塑像展の顛末 2
その手紙をいつ書いたのだったか、よくは覚えていません。10月10日頃だったでしょうか。その中で、私の塑像発見の経緯と私の店で塑像の展観をやって頂きたいと思っている事、そして11月の初旬に上京の予定があるので、その時にでもお会いした上でお話ししたいと思っている事などを、書きました。長男のAからは、会場で立花さんにお会い出来た事、催事開催については脈が有りそうな返事を貰えた事、また塑像も“一体”無事購入出来た事、その塑像が“むちゃくちゃ良い”事などを、すでに聞かされていました。返事を待ちました。
手紙を投函してずいぶん日が過ぎた頃、立花さんから待望の電話が有り、塑像展会場のSで“塑像”を見せて貰える事になりました。電話をもらったその日、翌年(つまり今展)の“塑像展”の文章原稿を、一気に書き上げました。「暮しの手帖」掲載の塑像写真(昨年5月の第1回展出品の60点程のもの)と、今展出品の塑像(34点で、すべて新作)との間にある、立花さん自身の塑像表現の変化(立花さん自身によれば、自分の塑像に対するイメージがより明確になって来たから、との事でした)が、数人の方から“有元や木内よりジャコメッティみたい”と言われたその原因なのです。その後の事は、「あまねや通信」に書いた通りです。しかし、事はそう簡単に運ばなかった事を、今回知る事になりました。写真は、オープニングパーティーのもの。14、5人の参加で楽しくやりました。
2010年4月13日火曜日
立花英久塑像展の顛末 1
昨年11月の「あまねや通信」の中で、今展の塑像の作り手・立花英久さんにお目に掛かり、福岡で塑像展をやって頂く様にお願いした話を書きました。その中で、“面白いエピソードがあるけれど、それは展覧会の時までお預け”とお伝えしましたが、それを今回書いてみます。
「立花英久塑像展」催事案内状の中で、塑像発見の経緯について、私は次の様に書いています。
私が立花英久(たちばなひでひさ)さんの“塑像の仕事”を発見したのは、月に1度「持病の薬」を貰いに出掛ける病院の待合室で読んだ雑誌、「暮しの手帖 No42」(2009年秋号)の記事の中です。昨2009年10月初旬の事でした。オーブン粘土を素材にしたその“塑像”は、私の眼には何処か“たどたどしい”小学生の粘土細工の様にも見える一方で、有元利夫の婦人像や木内克(きのうちよし)のテラコッタの裸婦像に重なるイメージを持っていて、そこに作者である立花さんの憧れが透けて見える様でもあり、私は一遍でこの“塑像”が好きになりました。立花さんがどんな経歴の持ち主であるのか、私は記事中に書かれた(1962年広島市生まれ。コマーシャルをはじめ、舞台や映像の演出を手掛ける。)以上の事は知りませんし、この際それは私にとって、どうでも良いのです。大事な事は、私達同様、立花さんが“今”を生きている人であり、その立花さんの“塑像の仕事”の中に、私自身の“今”が映っている事です。皆さんにこの“塑像の仕事”を見て頂きたいと、私が思ったこれが理由のすべてです。
その「暮しの手帖」には塑像の紹介記事に続けて、近々、東京のSで立花さん2度目の塑像展が行われると書かれています。しかし、上京を予定している11月中旬には、残念ながら展覧会は終わっています。そこで、東京にいる長男にかわりに見てもらう事にしました。そして、会場で立花さんに会って、私が福岡で塑像展を是非やってほしいと思っている事、また出来れば塑像一体を購入する様に伝えました。私は、これまでに作った催事案内状から5、6枚を選び、それに手紙を添えて立花さんに送りました。さて、首尾や如何に!