2018年4月3日火曜日

忘れられないもの 37
建物としてのあまねや工藝店

今泉の店舗夜景。看板は古板、文字は鈴木召平。
雨仕舞い悪く、左手の押出窓下の木の框が腐って

取り替えた後、窓枠下部にステンレス製の水切りを
付けてくれたのは、イタリア文化センタードリ
アーノだった。イタリアで同じアルバイトをしてい
と云って、彼は前歯2本の間に開いた小さな丸い
(口中に小釘を頬張りその穴から小釘を押し出す、
為に穴が開くのか、開けるのか?)を見せてくれた。

1978年 春 。10年近く暮らした東京を引き上げ、一歳になったばかりの長男と妻の百子を連れて、母と伯母が暮らす太宰府に帰りました。この先、自分が工藝の世界と関わりを持ち続ける為、売り手という立場で「工藝店」を始める為です。
帰り着いて福岡の不動産屋数軒を廻り、安めの家賃と繁華な天神地区から比較的近いという理由で、< 福岡市中央区今泉二丁目五番十二号 >に建つ木造モルタル二階建の一階部分(九坪程)を借りる事にしました。同時に、店の裏に建つ当時すでに築30年程の木造瓦葺き一軒家の半分、南西部分(二畳•八畳に台所と手洗付き風呂なし)を借りて住居(すまい)にしました。

今泉店舗室内 

これまで、自分の手で何一つ具体的な形を作る事が出来ていない、という負い目の様なものに背中を押され、店舗改装工事は可能な限り自分でやる事に決めて、道具類(鋸、金槌や電動工具類)を用意し、家族(母と妻)の手を借りて工事を始めました。
店の図面や技術的な実際面については、近所に住む詩人の鈴木召平
(すずきしょうへい)さんとの御縁でお近づきになったばかりの一級建築士 相原敏一(あいはらとしかず)さん(故人 後に幼馴染Sちゃんの尊兄だと判明)にお世話になりました。幸い(?)1978年の夏は、記録的な大渇水で断水が続き、そのお蔭で、水道工事も自分で出来ました。
終わってみれば、専門業者に依頼したのは電気工事と建具制作だけで、水廻りの設備から壁布貼り、そして店舗用の棚作りに至るまで、なんとか全ての作業を無事に終える事が出来ました。工事を始めて
1年近くが過ぎていました。
それから地上げによる立ち退き(1990年8月30日)までの11年間(自身の三十代)をこの店で過ごし、そして此処で培った縁(遺跡発掘のアルバイト)が、また平尾の店での仕事(福岡市博物館ミュージアムショップ)につながる事になります。

平尾店舗正面。看板は前崎鼎之作
真鍮板に銅板の切り文字

1990年秋に移転した平尾の店は、元の店から南東にまっすぐ
700〜800m下った辺りに、戦後間もなく建てられた古い木造二階建てで、表の壁は波板のトタン葺き。一階は天井一面にプリント合板が張り巡らされた十坪の事務所スペースで、奥の引戸を開けると、古い板塀付きのブロック塀を巡らした陰気な感じのする一坪の半戸外の空間。狭くて急な階段を上った二階は、畳敷きの六畳一間で、右奥に一間(いっけん)の押入れと流しに手洗付の物件でした。

平尾店舗室内

これを、’80年代の半ば頃から店に出入りする様になっていた宮島豊さん(現在、札幌で「フーム空間計画工房 主宰)が、室内の天井部分や構造上問題のない壁や柱を全て取り払い、こちらの要望(例えば、一•二階の隣家との境、壁一枚向こうは隣家の居間でもあり、お互いの気配を消すための工夫として、一階にブロックの壁〈展示棚兼用〉、二階は物入れを作る等々)を聞きながら、師匠筋に当たる白井晟一
(しらいせいいち)の建築言語とも云うべき、木毛セメント板の天井、太い梁や柱、搔き落としのセメント壁、木製ルーバー、中央に真鍮のドアノブが付いた背の高い扉等々の材料•意匠を駆使し、細かく図面を描き現場管理をしてくれたお蔭で、敷地十三坪一杯に建てられた古家が、至極居心地の良い店舗空間に様変わりしました。店舗奥も文字通りの中庭にする為、知人で植栽を手掛ける坂井健雄さんにお願いして、夏椿やヤマコウバシ等の樹木数本を入れたり御影石(みかげいし)の敷石を配したりして、見違える様に気持ち良くなりました。

中庭を臨む
右手から見た平尾店舗正面
左手から見た平尾店舗正面
背高ノッポの正面扉

その後しばらくは、「あまねや工藝店」が宮島豊設計士のモデルハウスともなり、福岡近辺を中心に直接間接を含め10棟近くの住宅の成約実績につながる事にもなりました。その事に加え、’90年代から始めて店舗設計を含む空間計画や、環境音楽に関する講演会などを実施した(宮島さん、私を含む4人の仲間の)グループ名「フーム空間計画工房」が、札幌の一建築設計事務所の名として、主に北海道地域の皆さんに貢献し続けている事も、宮島設計士への大きな感謝と共に私のひそかな誇りとするところです。

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