2011年5月31日火曜日
百子の花日記 100
花日記が100回になりました。感慨深いです。花を通して、沢山の方と知り合いになりました。特に、花を育てること、花壇を作る庭仕事のあれこれをオーストラリア人のベーカー神父様から。珍しい花を頂戴し、挿し穂で増やす事を教えて下さった野間ふきさん。花を生けることを見せて下さった佐々木志年さん。花に関わる仕事をする様になってからの三人の方との出会いは、私にとって意味の有る大切な事でしたし、出会いがなかったらこの花日記も書いてはいなかったろうと思います。書く事を奨めてくれたいつきさん、ありがとう。
この記念に合わせた様に、野間さんの沢アジサイが一輪咲きました。
“薮花流”花教室のこと
2011年5月27日金曜日
子どもの本や販売会始まる
イタリア風(?)個展の楽しみ方
2011年5月24日火曜日
2011年5月21日土曜日
2011年5月16日月曜日
嬉しかった事
昨5月15日。37、8年来の知人Sさんの夫人・圭子さんと御友人のHさんが東京から、地元・けやき通りの珈琲屋(と書くと、怒られそうだけれど)の友人M君と夕方6時過ぎに、連れ立って来店。
折しも、「熊井展」二日目のお話し会後の盛況で店内はざわめき、人が沢山の時でしたが、心を鬼にして居合わせた皆さんに(熊井さん、K君ごめんなさい!)7時閉店を申し渡しました。
というのも、7時30分に近所の「洋食屋 S」に食事の予約を入れていたからなのです。実は、圭子さんのご亭主のSさん(というより、一般的には見田盛夫のペンネームで有名な料理の評論家。’82年「銀花」紙上に、今泉時代の「あまねや工藝店」とM君の店「珈琲 美々」を紹介してもらった事があります)が昨年2月に亡くなり、大分県に有るS家の菩提寺に分骨の為、九州入りしたついでに古い知人の私とM君の処を訪ねて下さった訳です。ところで、「S」には私と一緒に行く人達が、とりわけ味にうるさく(圭子さんとご一緒のHさんは料理関係業界紙の編集長、M君も味にうるさい)舌の肥えた人達だとは一言も言いませんでした。S君を変に緊張させてもまずいし、いつもの仕事振りを見てもらい、味わってもらうのが彼の為にもなると考えたのです。
さて、日曜の夜とあって店内は満席でした。あらかじめ頼んでいた「夜のコース料理」に合わせて、ワインを選びたいと云うHさんの申し出で、まずコース料理のメインディシュがどんなものであるか、なおかつそれをどのように調理してあるのかを、手伝いの女性に尋ねます。当然、彼女には答えられませんから、S君が出て来て子羊のローストに粒マスタードのソースを合わせた一皿である旨、Hさんにお知らせしていました。メニューと一緒に渡されるワインリストを見ると、見田盛夫が好きであったとHさんのおっしゃるフランス産の赤ワイン(名は失念)があります。圭子さんもM君もあまり飲めないと云うので、私がお相伴する事に決めて、そのワインを注文しました。
まずは、Sさんの思い出に皆で乾杯しました。そして、前菜の皿からスタートです。Hさん曰く、五、六種の前菜のどれもが味のメリハリが利いて美味しいとの事。とりわけ、中に添えてあった空豆の触感がお気に召したらしく、手伝いの女性を介して「その触感」の事を尋ねておいででした。驚いたのは、Hさんの感じたその触感が、実はS君が意図したものであった事です。S君にしてみれば、自分の意図したまさにその事が、他人の口を通してほぼその通りに高評価された訳ですから、嬉しかったに違いありません。その後、サラダに使っているオリーブオイルが上等である事、またスープ(新タマネギと長ネギの青味部分を使ったポタージュにまと鯛のポワレが置かれてある)に浮かせてあるバターが美味しいからと、パンの付け合わせにわざわざバター(無塩バター)を注文したり、そのバターに塩がふられて出て来るとがっかりしたりと、皿ごとに必ず彼女自身のコメントと「おいしい!」の台詞が入ります。その度毎に、私はHさんに御礼を申しました。
友人であるS君の仕事を褒めてもらって、真実嬉しかったのです。
後で、私がSの「影のオーナー」だと思った(当然冗談ですけれどね)と言って、私を嬉しがらせたりもして下さいました。
楽しく素敵な夜でした。Hさん、そして圭子さん。お訪ねいただき有難うございました。ちなみに、当夜のHさんの買物。一枚目の写真の中央より少し上の朱色の彫刻。Hさん曰く「牛のレバー」だそうです。
追記 一通りコースが終わった後のお喋りの中で、Sのメニューにクスクス(中近東あたりで食される、粟粒状の蒸したパスタに子羊や野菜を一緒に煮込んだ香辛料入りのスープを掛け回して食する料理)があると聞いたHさん。是非それを食べてみたいとおっしゃり、追加で注文しました。私達にも少し分けて下さいましたが、大半は彼女のお腹におさまりました。その後、クスクスのスープの味の話になって、私にはわからない野菜の名前が出て来て(確かセロリアーク)、それを足すかセロリの元の方を刻んで入れるだけでも、味が違って来るのだそうです。今度Sに行ったら、私もクスクスを食べてみるつもりです。
お話し会とリュート演奏会
5月15日。熊井展二日目の本日、午後2時から熊井さんにお話を聞く会を催しました。あらかじめこちらで用意した幾つかの質問に答えて頂く形で、熊井さんのお仕事の始まりの切っ掛けや、学校時代の恩師である佐藤忠良氏や山口長男氏から学んだ事、更に3年ほど師事した豊福知徳氏の元での徒弟奉公時代の事。また更には、彫刻の素材としての石や金属あるいは木材の事など。1時間近くに渡って、お話しして下さいました。その後、ご友人の深町さんのリュート演奏で今日の予定は終わる筈でしたが、あれこれのお酒の差し入れもあり、昨夜のパーティーの2次会の様に。修理が終わったテラスに座り込んで話す人や、お酒を楽しむ人達等、今日も閉店まで賑わいました。
熊井和彦個展の始まり
2011年5月12日木曜日
2011年5月10日火曜日
Kさんへの手紙
大震災直後、市内のデパートで同世代の作り手の人達(50代一人、60代二人)の展観が催されました。一日出掛けて、食事をしたり話をしたり致しました。後日その内のお一人、鹿児島で磁器の仕事をしているKさんから頂戴した御礼状への返信を、ここに掲載するものです。
大震災と云う大きな悲劇の後でありながら、陽はうらうらと暖かく若葉の美しい季節になりました。その後お元気でお過ごしの事と存じます。お葉書拝見しました。Kさんらしい誠実さの感じられるお便りでした。有難うございます。
さて、どの時代を生きる人にとっても、自分たちの生きている時代と云うのは、どこか不透明で見通しの利きにくい処がある様に感じられるものだと思います。そんな中、現実の有り様が一気に透けて見えてしまった様な出来事が、今回の震災だったのではないでしょうか。
つまり私達の日常が、実は安定を欠く非常に危ういバランスで支えられてあると云う事、そしてその事に私達がどれほど無自覚でいたかと云う事です。その事を踏まえた上で、’70年代に私達の世代が(20代の若者として)当面した「人としてどう生きれば良いのか?」、この問いを今あらためて、自らの眼の前に突きつけられている様な気がします。ただ、’70年代と今とが大きく違うのは、私達の世代がそれぞれの仕事の領域で、それなりに経験を重ね、その仕事や言葉が、まわりに対して影響力を持ってしまっている事でしょう。したがって、その事への自覚なく、不用意に発言したり仕事を続ける事が、出来にくくなっているのは間違いないと思います。
今回、丹波の柴田さんの会を7年振りで開催して、その仕事振りをつぶさに見、話を聞いて感じたのがこの事です。貴方御自身も「つまらない仕事をすると、仕事をして来たこの手に申し訳ない。」と仰っていた様に、自分の仕事を通して自らのうちに醸成されて来た或る「感覚」を大事にする事が、さほど簡単な事ではない、むしろそれを裏切る現実の方が圧倒的に優勢で力を持ってしまっている、そんな時代に私達は生きているのではないでしょうか?
ではどうすれば良いのか?限られた時間を生きている私達に、その答えが簡単に見つかる筈もありません。与えられた時間の中で、先程の問い「人としてどう生きれば良いのか?」を自らに引き受けて、愚直に誠実に問い続ける事。こんな当たり前の事の繰り返しの果てに、運が良ければ「大事な何か」を見つけられるのかもしれません。
薮庭のトウオガタマが匂っています。御礼まで。
あまねや工藝店 川口義典