2009年7月25日土曜日
鈴木照雄君の事
夕刻、時間雨量110mmの豪雨に見舞われた昨日、友人の鈴木照雄君が夫人と二人で福岡にやって来ました。朝の電話では、仙台空港がひどい霧で欠航かもしれないとの事で心配しましたが、無事に定刻の昼頃到着。’95年12月に、同君の個展を“あまねや工藝店”で開催して以来ですから、約14年振りの来福になります。その個展案内状の中で、私は次のように書いています。
「’93年の春、最初に仕事場を御訪ねした時、強く印象に残ったのは仕事場の背後に広がる雑木林の美しさと、堤・館の下など東北諸窯の大がめの優品や仕事場の壁に掛かる竃面など、家の内外に筋の通った工藝品が溢れている事でした。これらの品がこの家の主である貴方の創作の源になっているのは想像に難くありません。しかし喜びを与えられる一方、これらのものを物差しにして自分の仕事を計る事の苦しさも又いかばかりのものでしょうか。・・・」
’92年の秋、久しぶりに見た“日本民藝館展”の一室で、黒地に釉を流し掛けた7寸位の皿・数枚が目にとまり、民藝館職員で旧知のTさんに作者を尋ねたところ、鈴木照雄という私と同世代の男性で、宮城県の北部で家族と離れて独り住まいしながら仕事をしている人である事、そして更に話を聞いてみると、数年前にTさんから貰った“黒釉手付き片口”を作った同じ作者のものだと云うのです、驚きました。
というのも、私が最初に見たその片口は妙にいじけたロクロで、こんな仕事を見ていると短気な(本当です)私は、後ろから「しっかりしろ!」と背中をどやしつけたくなるのです。ところが目の前に見る仕事は、いつもうつむいて歩いていた人がようやく顔を上げ、真っ直ぐ前を見ながら歩き始めた姿を見ている様で、実に良い仕事になっているのです。Tさんに連絡先を聞き、手紙のやり取りを数回した後、翌’93年4月に鈴木君を仕事場に訪ねました。取り付け道路から田んぼの間を50メートル程進むと、背後に大きな雑木林を背負った敷地の左手に母屋、右手に元家畜小屋だった仕事場が建っています。その建物の横を廻り込んで少し上った処に、自分で築いた登り窯があって、一人で仕事をする環境としては申し分なく見えます。同居人は、雌の柴犬と鶏数羽。その夜、同君の手料理で酒を飲みながら、鈴木君の仕事全般に対する私の感想を、率直に話しました。(当然、悪口に聞こえます)
それを怒らずに聞いてくれた上、廻りに並んでいる同君の集めた様々な物の話しをするうち、すっかり仲良くなりました。
それ以来、東北に出掛ける時は必ず立ち寄る場所の一つになり、’95年2月仙台のFデパートでの同君最初の個展の時は、会場構成や物並べの手伝いもいたしました。
鈴木君の作る物には、その風土と仕事の根(平たく言えば、米の飯を食べ味噌汁をすすりながら生きている人間が作っている事)が、はっきりと映っている様に私には見えます。目隠しされた後、町の真中に立たされて眼を開けても、そこが何処の町だかわからない様な時代に生きている私達にとって、仕事の背景ともなり根っ子ともなる“風土”と切り離して考える事が出来ない“工芸の世界”の仕事くらい、せめて自分の暮らしている土地の“なまり”でしゃべって欲しいのです。
一人の作家が始めた或る仕事(例えばスリップウェア)が流行れば、その真似をして(おまけに意匠としての模様まで)一斉に“右へならえ”と云うのでは、仕事をする人間としてあまりにも情けないと思います。こんな時代であればこそ、それぞれの風土、更には作り手個人の
“根”が反映された、“なまっている”仕事が見たいと切に思います。
2009年7月23日木曜日
百子の花日記 1
細君の百子が、薮の様な庭にあれこれの花を作っているのは公然の秘密です。質の悪い花泥棒に悩まされ、ある時は25年も育てて来たクリスマスローズ(花そのものは50年生くらい。花を40本ほども付ける見事なものでした)を株ごと盗まれたり、貰ったばかりの黒のロウバイを盗られたりと、散々です。でも、めげずに育て続けた色とりどりの花を店にある様々な花入れに生けるのが、彼女の大きな楽しみなのです。これから折に触れ、その花々を皆様に御紹介いたします。以下、細君が書いたものをそのまま掲載いたします。
オーストラリアに住む娘・Iに見て貰うための花を生けます。
7月8日。 花の少ない夏に向かって庭木を剪定。残り花の紫陽花と白の縞が綺麗な暖竹、そしてインドハマユウのラッパ型の白い花で、梅雨の晴れ間の庭は気持ちの良いものでした。岩井窯・山本教行作 灰釉象嵌扁壺には、暖竹とインドハマユウ。同じく岩井窯の瑠璃釉面取り花入れには、紫陽花いろいろと木槿(ムクゲ)。
7月12日。前日の土曜日まで、店にある丹波・柴田雅章作 灰釉どら鉢に生けていた花を枯らしてしまうのが勿体なく、家に持ち帰って山本教行作 地釉角花入れに生けました。人参木の花穂が全体をメタリックにして面白く見えます。人参木は中国より渡来したもので、葉にとても良い香りがあります。
7月20日。IとMの結婚記念日に。白の玉紫陽花は、7月1日の開店30年の記念として庭に植えました。いつきの小学校卒業記念樹のアメリカハナミズキは、カミキリムシの幼虫が幹に入って、10年前に枯れました。いつの日か、Sや生まれて来る孫の為に植えようと思います。山本教行作 地釉角花入れに、八重の桔梗、薮茗荷、玉紫陽花。
2009年7月15日水曜日
民藝館の陳列について
’72年の春、初めて倉敷民藝館の陳列を見て私が驚いたのは、其処にある品物の大半が裸で、しかも生き生きと並べられている事でした。一般的な博物館などで、それまで見ていたガラス越しの展示にくらべると、それがひどく新鮮に見えて、その事を外村先生にお話ししましたら、たいそう喜んで下さいました。たしか、「物は風に吹かれるくらいが丁度いいんだ」と仰った様に思います。さて、手元にある月刊「民藝」の’74年4月号に、私が最初に先生の陳列替えのお手伝いをした時の、懐かしい写真が載せられています。囲炉裡を切った大広間から階段を上った部屋に作られた、奥行きほぼ1間、間口が2間位の
“のぞき”の展示は忘れられません。左の隅に、KAKI工房の松材の白々と美しい飾り棚が据えられ、その棚には彩りも美しくメキシコやイタリヤの吹きガラスが並びます。中央にはグアテマラの彩色した櫃、スペインの緑釉の大蓋物、メキシコの黄色い楕円皿、奥の壁際にスペインの7本の腕を持つ鉄の燭台が据えられていて、その腕の一つ一つに色とりどりのちびた蝋燭まで差してあるのです。展示の目処がついた後、“のぞき”の横の入り口を開けて「(この展示)匂いまで付いているんだよ」(スペインの鉄の燭台に差された蝋燭が何とも云えない好い匂いがして、当時の私には其れが西洋そのものの匂いに思えました)、こう仰った先生の嬉しそうなお顔も目に浮かんできます。
さて、倉敷民藝館・臨時職員時代のたぶん1年目の夏であったと思いますが、かつて倉敷民藝館に御奉職でその当時、大阪日本民藝館の主事をなさっていた鈴木尚夫さんが夫人と御二人で来倉され、私にも声をかけて下さいました。それが御縁になって、その後大阪日本民藝館の陳列替えに呼んで頂けるようになりました。大阪では、鈴木さんと御友人で松江の御茶人(正確ではありませんが、ひとまずこう呼んでおきます)金津滋さんのお二人が中心になり、京都で織物をしておられた小谷次男さん(主に展示に必要な道具や、仕掛け類のご担当。柳悦孝先生の御弟子だった人です)などの他、私のように呼ばれた若い手伝い2・3人で、数日掛けて展示します。大阪日本民藝館が素晴らしいのは、なんと言っても第1室の長い“のぞき”で、丁度絵巻物を次々に拡げて見ていくような楽しさがあります。いつだったか、そこに沖縄の染織品が並んだ時などは、まるでガラス越しに南国の海の底をのぞいているような楽しさがあって、私には忘れられない展示のひとつです。大阪の楽しみは展示が終わった後の食事です。鈴木さんの御自宅に呼んで頂いて、奥様の美しく美味しいお料理に感激した事や浜田庄司の7寸皿、倉敷堤窯の素晴らしい湯呑み等々、それまで見た事もない焼物を直に使った家庭料理に接したのも、初めての経験でした。
こんな経験を重ねながら各地の民藝館を見ていくと、それぞれの民藝館で陳列の具合(持ち味の様なもの)が違う事、また民藝館と名乗っていてもひどい展示もある事など色々な事がわかって来ました。公の民藝館とは言いながら、それを慈しみ育てて来た人が亡くなれば大きく様変わりする事は避けられません。その意味で、民藝館もまた“個人の表現”と言っても良い気がします。倉敷、熊本、松本、富山などの民藝館を長い時間の中で拝見していて、特にそう感じます。“民藝”の名を冠した施設であれば、それを通して“民藝”の何たるかを人に知らせる場所として、大きな責任が伴うのは言うまでもありません。月刊「民藝」掲載の少なからぬ諸施設の内、その責任の自覚をどれほどの所が持っておいでなのか、率直に聞いてみたい気が今しています。そして、民藝館にとって陳列が大事なものである事が自明の事だとすれば、感覚的なそれを、伝え易い一つの文法あるいは技術の様なものに還元し、後に繋げていく為「いま何をすべきなのか」を、関わりのある者すべてが自分の問題として考える必要があると思っています。
写真は、上から倉敷、大阪、松本の民藝館の陳列の様子。古い月刊「民藝」の写真をカメラで写したものです。見難いのはご容赦下さい。
2009年7月9日木曜日
忘れられない人 2 柳 悦孝 先生
ー 24歳のMさんへ ー
倉敷民藝館・初代館長 外村吉之介先生が私に民藝の世界の扉を開いて下さった、いわば“生みの母”だとすると、これからお話しする柳悦孝(やなぎ よしたか)先生は、私にとって“厳しい父”の様な存在でした。今日はその話をいたしましょう。民藝の世界に御縁が出来て、2年目の1973年。私は駒場の民藝館で毎年秋に行われる“日本民藝館展”の手伝いや、民藝に関する研究会で若い人が大勢参加していた
“無名会”(むめいかい)に出入りするようになっていました。
その年の春頃の事です。私が書いたアジビラ“閉ざされた地平を拓くのは!”(その時は至極まじめに考えて書いたつもりですが、いま見るとタイトルからして力みかえった恥ずかしい様なタイトルです)を見て、T君とY君の二人が無名会の例会にやって来ました。
さしずめ、あんな生意気な事を書いた奴の顔でも見てやろう位の気持ちだったかもしれません。両君とほぼ同い年であった事も手伝って、無名会とは別に二人との付き合いが始まります。
当時、私のまわりにいた若い人達は大半が作り手か、あるいは物作りの勉強に携わっている人達で自然、私の中にも具体的に物を作る事に対する憧れが芽生えてきました。その当時T君は織物、Y君は焼物を手掛けており、学生であった私から見ると、考える事また生活する事の中心に具体的な“物を作る事”が据えられていて、言葉だけに頼って表現しようとしている自分にくらべると、確実で大きな説得力を他人に対して持つように見え、羨ましくて仕方がなかったのです。
考えてみれば、私の師匠の外村先生も30歳を過ぎて織物の世界に入り、作家として一時代を築いた人でもあり、「織物だったら私にも出来るかもしれない!」と思ったのです。(何という傲慢!この時点で、すでに躓きが約束されていたようなものです)
その年の秋、Y君の口利きもあって彼の父上である柳先生の工房で織物の手ほどきをして頂ける事になり、勇んで仙川の工房に出掛けました。ちなみに、柳悦孝先生は柳宗悦の甥にあたる方で、女子美術大学の学長を務めたり、良い織り手を何人も育てた方です。後年おつきあいする事になる盛岡・蟻川工房の蟻川紘直さんも、’60年代に先生の内弟子として工房に在籍しています。その当時、先生の工房には、MさんとSさんそして京都の道具屋さんの息女であるOさんの3人の女性が仕事をしていました。藍で染めたガラ紡の糸を小管に巻くところから始め、綜絖通しに至るまで、先生から丁寧に教えて頂きました。
学業の合間に仙川の工房に通い始めて3ヶ月ほど経ったある日の事。柳先生に呼ばれて工房に伺うと、次のように話が始まりました。
「人は誰でも仕事をしている内には、必ず壁にぶつかる事があるものだ。そんな時、手の仕事を生業に出来る人は、その壁を手を動かしながら乗り越えて行く事が出来る。しかし、君を見ているとその壁の前で立ち止まって考えるタイプの様だから、織物を仕事にするのは止めた方が良いだろう。」こう申し渡された私の失望と落胆の大きかった事は、皆さんご推察の通りです。
しかしながら、こう言われてすぐに諦めてしまう事自体、私の中に“織物”を一生の仕事にしたいという強い気持ちがなかった証拠です。
何をするにせよ、人は或る処まではどんな事でも出来るものだと思います。(大工仕事であれ、織物であれ、あるいはリコーダー演奏であれ、例えが非常に変ですが)ただ、それを一生自分の仕事として引き受けるとなると、また話が別です。飽きたからと言って止める訳にも行きませんし、飽きずにその“何か”を続ける事自体が一つの才能かもしれません。そう考えれば柳先生が仰るように、誰にとっても或る仕事について、“向き不向き”があるのは理解出来ます。
とは云うものの、私の場合しばらくそこから立ち直れませんでした。
しかし、この時先生にこう申し渡されて、作り手を断念した事が今の私につながる訳ですから、柳先生が“あまねや工藝店”の一方の生みの親である事は間違いありません。
後に仕事を始めて物つくりの人を傍で見ていると、物作りを自分の生業にしなくて良かったとつくづく思いました。24歳の時の事です。
柳悦孝先生、本当に有難うございました。
2009年7月1日水曜日
30年目の御挨拶
1979年7月1日、福岡・今泉の地に最初の店を構えてから30年。大きな失敗もせずに、これまでの日々をなんとか無事に過ごして来る事が出来ました。バブルのあおりによる立ち退きで、’90年10月に現在地の平尾に店を移してからは、物を売り続ける事を生業にした難しさを痛感させられる事になりましたが、また同時に、店の2階を利用して小さな催事を定期的に続ける事や、映画会・講演会等を自前の場所で出来る喜びを知る事にもなりました。その間、物を作る立場の皆さんの協力、あるいは買う事で私の仕事を支えて下さったお客樣方や友人達に多くを負ってきました。そして今は亡き母クニ、妻の百子(ももこ)を始めとする家族の協力なしには、これほどの長い時間
“あまねや工藝店”を続ける事は出来ませんでした。
あらためて、家族の皆をはじめ皆様方に御礼申し上げます。
有難うございました。
1972年の春休み、博多に帰る途中に偶然立ち寄った倉敷民藝館で、倉敷民藝館の初代館長・外村吉之介(とのむら きちのすけ)先生と出会った事が、私に民藝の世界の扉を開いてくれました。その後の偶然も重なり、先生のお許しを頂いて、私はその年のひと夏を倉敷民藝館で臨時職員として過ごす事になります。
夏休みの50日を過ごした倉敷の町を去る前の或る夜の事、先生のお供をして出掛けた岡山から帰るタクシーの中での私の問い、「私だけこんなに幸せで良いものでしょうか?」に対する先生の答え、「その喜びを人と分かちあったらどうでしょう。」に出会いました。
牧師でいらした先生の、いかにもキリスト者らしい見事な答えです。この言葉が、その後の私を支える事になり、また“あまねや工藝店”の指針ともなりました。
’70年安保以後の時代の趨勢の中で、外の社会(私にとっては“世界”と同義語でした)の何処にも自分の拠り所を見出す事が出来ず、ぬるま湯の様な(実は非常に恵まれた)環境の中で生き悩んでいた私にとって、この真夏の文字通り“暑い”50日の経験ほど具体的で充実したものはなかったのです。
70歳を過ぎてなお、自分の中に或る“確信”を持ちながら仕事を続けておられる先生は、ケチな自尊心に悩み、自分の居場所を探し続けていた私に“思想”を生きる人の姿を、はっきりと目の前に見せて下さったのでした。この後6年ほど臨時職員として倉敷民藝館でお世話になり、私の徒弟修業時代が終わります。
店を始めた当初は工芸に関わる立場の中で、唯一みずからに残された
“売り手”という立場に馴染めず、自分の中の“挫折感”の様なものを払拭出来ずにいました。しかし,2年3年と仕事を続けるうち、どうやら自身の“思い込み”とはうらはらに,私自身人と話をする事が好きであるらしい事,そして好きになれなかったこの“売り手”という立場が実は自分に向いている、というより自分に“用意された場所”ではないかと思えるようになって来たのです。これはその後の様々な人々との出会いを通じて、自分の中で強い“確信”に変わります。
こうして、“あまねや工藝店”での私の30年が過ぎて行きました。