2009年4月15日水曜日

書く事と話す事の難しさ


今月20日発売予定の「手の間」と云う九州一円を販売エリアにしている雑誌から、小鹿田の坂本工さんがらみで取材を受け、「あまねや工藝店」を私の談話の形で記事にして頂く事になりました。昔から地元の情報誌の取材等を通して、それらの記事が決まりきったセオリー通りにしか書かれない事に対する不満もあって、なるべくお断りする様にしていました。かつては、若かった事もあり書かれた記事に対して、直接書き手に文句を言ったりした事もあります。そんな事を繰り返すうちに、その手の情報雑誌からの取材はほとんど来なくなりました。

そんな私が、“何故、今回の取材を‥?”と仰るのですか。実は、この記事の書き手であるTさんには、以前別の雑誌で店の紹介をして頂いた事があり、その記事が珍しく何の不満もない良く書けた(と私には思える)ものだったのです。3月上旬に取材。昨年、「小鹿田新作展」の折に私が書いた文章も、資料としてお渡ししました。そして、ほぼ一月後の4月に写真撮りと、校正用の原稿を貰いました。その日午前2時まで掛かって、30カ所近い訂正箇所を書き上げ、翌日ファックスで送信。その後も粘り、つごう2回追加の送信をいたしました。この訂正の数が多いのか少ないのかわかりませんが、私が話した事をTさんが書き取り、資料を参照しながら私が話した様に書く。この行程の中で、私だったらこうは書かないだろう、あるいはこう書きたいと云うものから微妙にずれて行き、自分の中に一種の違和感が生まれた結果の訂正です。今こうして書いているブログの文章も、落ち着くまで細かく何度も手を入れています。最初に読んだ時から少し時間が経って再読してみると、どこか文章が違うとお思いになった方があったとすると、それはこう云う訳だったのです。さて、その原稿とは、

300年さきの小鹿田のスタンダードを創ること。
それが我々がやろうとしていることです。

私は小鹿田焼の坂本工さんを、伝統のものを過不足なく作れる数少ない陶工の一人だと思っています。小鹿田は民芸の世界で、宝の様に思われている土地です。しかし、全国の産地と同じ様にその名前にあぐらをかき、職人は自分の拠りどころというものを考えずにきた。現在の窮状を招いた、それが原因ではないでしょうか。私が感じている民陶への危機感が、工さんにもありました。彼は未来を見据えて、自分の仕事をより良くしようと努力しています。自分に足りないところがたくさんあると自覚している、そこがすごいのです。作り手は、自らの仕事を客観的に見る視点を持てた方が良いのです。私は30年前に店を始める時から小鹿田に通っていましたので、工さんのことは高校生の頃から知っていました。物つくりと店主としてのお付き合いは2005年からです。私は工さんに、小鹿田の未来に続く仕事の提案を一緒にしようと持ちかけました。つまり新たな”スタンダード”を提案し次世代へつなげようと。具体的には、2006年に「抽象紋の皿100展」と題した尺一寸皿の新作100点を発表。2008年には「無地シリーズ」として加飾抜きで模様の意味を改めて考える、作り手にとってはひどくつらい企画展を開きました。そして、工さんが無地と云うテーマと格闘する中から生まれた「白掛睡蓮鉢」が、2008年度の日本民藝館賞を受賞した事は私にとっても嬉しいことでした。
我々の試みは、「模様の発見」・「標準への提案」と続き、来年にはこのシリーズをいったん終える予定です。小鹿田に対してどういうスタンダードを提案出来るのか今は分かりませんし、我々がやっていることは、もしかしたらかなり際どいことなのかもしれません。ですが、「仕事を支える中心の部分を変えない」ということと、「時に応じて変化する」ということは、矛盾しないと私は考えています。もしもこの試みがいつかひとつでも形になって、小鹿田の地に根づき、静かに広がって小鹿田焼のスタンダードのひとつに数えられるようになれば・・・。これまでの三百年を考えるなら、三百年先に元をとるくらいの覚悟でやらなければならないだろうと思います。私はあくまでも、工さんが考えてもがき道を発見する、その手伝いをするというスタンス。どうやったら向こう側の世界へ橋が架けられるのか、それを一緒に考えているのです。

何処をどうさわったのか分からなければ成功ですが、でもどこか変でしょう?

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