秋田県湯沢市の郊外に、800年ほどの歴史を持つと云う漆器の産地・川連(かわつら)があります。現在は「稲庭うどん」の名前が知られる様になって、その名を出せばおおかたの場所の見当をつけてもらえる様になりました。その川連の塗師(ぬし)Sさんとは、開店以来30年近いお付き合いで、いまは長男のFさんも塗師として活躍中です。3年程前からそのSさん親子が、毎春福岡のイベントに参加するようになり、今年は私も会場に出掛けて、Fさんの新作を含む100点程の漆器を見せてもらいながら、Fさんと色々な話をする事が出来ました。
Fさんは高校卒業後、石川県の輪島にある漆器技術の伝習所に進み、様々な技術を身につけて帰郷。地元の川連の職人では出来ない様な仕事をやりたい、また輪島の人達にも負けない様な良い仕事を続けたい。こんな強い想いを持って、日々仕事を続ける好青年です。問題はその新作で、Fさんの意欲があまりに強すぎる為か、身につけた技術を前面に出し過ぎた物が多く、かえって私達の日常の暮らしから遠いものになっている事です。川連も他の産地同様、塗師や木地師の後継者不足あるいは減少が顕著で、お父さんのSさんの話に寄れば自分の若い頃60人いた木地師がいまは4人、しかも盆の様な大物を挽ける人は70代の一人だけとか。こんな状況の中で産地の若手として伝統を担い、しかも仕事としては先細りが確実なこれからの時代の中で、いったい何を手掛りにして、人の暮らしの中で使い続けられ、かつ人の気持ちにじかに届く漆器を作り得るのか、これは一人Fさんだけの問題ではありません。あまねや工藝店として催事の約束をした手前、Fさんに私の気持ちを充分に伝え、仕事の参考になる様な物も見てもらいながら、良い催事になるよう努力したいと思います。なんとか今年中に、久しぶりの湯沢に出掛けたい、いや出掛けるつもりです。
2009年3月25日水曜日
2009年3月24日火曜日
2009年3月11日水曜日
忘れられない人 1 寒風春木窯・沖塩 明樹さん
倉敷民藝館 初代館長・外村吉之介先生がその著書「喜びの美 亡びの美」の中で、窯の名を「詩の題の様な」と評された寒風春木窯(さぶかぜはるきがま)・故 沖塩明樹(おきしおはるき)さんの、焼物の仕事を福岡で皆さんに見て頂いたのは’94年12月の事です。沖塩さんが、倉敷・酒津地区から岡山の寒風に窯を移されて10年ほど後になります。
当時、五室ほどの大きな登り窯を使い、お弟子二人と沖塩さん御自身とで、春と秋の二回窯に火を入れておられました。焼き上がったものは地元の民芸店をはじめ決まったお店に納められて、ほとんど残らなかったと聞いています。’72年に私が「倉敷民藝館」でアルバイトを始めた頃、沖塩さんの焼物は地元で評価も高くすでに充分に有名でした。その事も手伝って’79年に「あまねや工藝店」を始めた時、品物を置いて頂く様お願い出来なかったのです。それから10年ほど後の旅の途次、なじみの倉敷の陶器屋さんで寒風春木窯の湯呑みを見つけて家族分を購入。それらを見ている内に堪らなくなって倉敷民藝館に引き返し、民藝館のMさんに沖塩さんへの紹介を御願いして、車で寒風へ。自己紹介をした後、突然お訪ねするに至った経緯やら、私自身が沖塩さんの仕事をどう見ているか等々、一所懸命お話ししました。そうこうする内に日が暮れて「泊まって行きなさい」と云う事になり、沖塩さんとのお付き合いが始まりました。
寒風春木窯では、師匠(つまり沖塩さん)が作った見本100種類くらいの品物(主に食器)を、弟子が繰り返して数を作る事で単価を安くおさえ、作った物を何番の窯の何処に置くと云う処まできちんとデータを取って、仕事が進められて行きます。その際、師匠と弟子の技術上の力の差が、作品に反映されにくい様、技法上も形の上からも様々な工夫が凝らされているのです。技法で云えば、掛け分け、しのぎ、いっちん、など個人差が出にくい技法を採用し、また具体的な形の面で言えば、湯呑みの高台の削りを技術的に難度の高いものにせず清潔な高台にしている処などです。ところで、最初に泊めて頂いた時だったかどうか覚えていませんが、福岡でぜひ「寒風春木窯」の展観をやって頂くようお願いをし、引き受けて頂いた事があります。それが沖塩さんにとって、大きな負担であった事を終わって聞かされ愕然とした事も有りました。それは先にお話ししました様に、年に2回の窯出しで焼かれたものは出荷すれば、ほぼ全量が現金に変わります。ところが会の約束をすると、毎窯その会の為(福岡の場合、およそ1000点)に品物を少しずつでも取っておかなければならず、お金に換わらない分お弟子への給料等の経費が払えないのです。福岡での会の為に、沖塩さんは定期預金をひとつ取り崩されたと云う事を知りました。申し訳ない事でした。
生前、直接お尋ねする機会は逸しましたが、作り手としての技術もまた形に対するセンスも人並み以上の沖塩さんが、自分の仕事のすすめ方を決めるにあたって、大きく影響を与えた決定的な出来事があったに違いないと私は思っています。それは1960年に創業した倉敷 堤窯の武内晴二郎氏の元で数年、先の大戦で隻腕になった同氏の、文字どおり右腕として数もののロクロを挽いた、その事です。自らの表現として型の仕事に活路を見出し、スリップウェアーや練り上げの仕事で多くの美しい仕事を残した人。「眼で創る」と云われたほど美しいものを良く理解し、意欲も才能も人並み以上であった氏の下で、数年ともに仕事をして以来、沖塩さんには御自分の才能の限界とでも云ったものが見えてしまったのではないのでしょうか。そこには沖塩さんのいわば「潔い断念」があったのです。その決断が、後の「倉敷みなと窯」或は「寒風春木窯」の良質の食器の仕事に結実した事を考えると、私ども皆にとって、まことに尊い御決断だったと云わなければなりません。沖塩さん有難うございました。