百年池の山桜、写真は去年のものです |
2017年3月31日金曜日
4月からの休日変更のお知らせ
2014年3月31日 • 退院の日
3年前の3月31日、太宰府政庁跡の桜 |
2014年3月31日。前年11月11日に入院して以来、約5ヶ月を過ごした福岡県立「粕屋新光園」を、この日無事に退院する事が出来ました。入院前の数年は、50数年前に手術した右足首関節の変形から来る痛みで、歩く時は2本のステッキに頼ってゆっくりとしか歩けなくなっていました。たまたま受診していた病院の勧めてくれた病院が、10歳の時にポリオの手術をして半年間入院した事のある、この「粕屋新光園」だったのです。整形外科の手術としては難度の高い「汎足関節固定術」を施術出来る病院は、「粕屋新光園」と関東の南多摩にある病院の二カ所だけであると聞いています。
元々この病院は、体に障害を持つ子供達の為に1953年に設立された病院です。この病院を受診すると、当たり前ですが、体に障害を持つ子供達が今も沢山いる事に驚かされます。子供専門病院ですけれども、ベッドに空きがある時に限り、大人の患者も一人ないし二人位の入院が認められるのです。私は、入院期間を逆算し、店の仕事が一段落して1年の内でさほど忙しくない時期の、11月入院 • 3月末退院、を希望して幸いにも認められたのです。
50数年ぶりの5ヶ月の入院 • 手術は不安でした。しかし、実際に入院してみると、病院スタッフ以外、廻りにいるのは5歳から17歳位までの子供達ばかりで、普通の病院に多い老人がいないのです。しかも、3歳から手術を重ねて手術は今回で三度目の子がいたりして、私よりはるかに過酷な経験をしているのです。もちろん私が最高齢者です。入院している子供達との関係で云えば、私は祖父世代ですが、スタッフの方々が「川口さん」なので、子供達も私を呼ぶ時は「川口さん」です。不思議に違和感がないのです。古い古い病院なので、私が入院している時に立て替え工事が始まっていて、いろいろ不便もありましたが、入院していた5ヶ月は、手術後の1週間を除けば、愉しい思い出ばかりです。
子供達の出演する「クリスマス会」もでしたが、何より嬉しく驚かされたのは、私の誕生日(1月21日)に朝食の為、最後に食堂の入口を入った途端、小学4年生のユウト君が音頭を取ってくれて、そこにいる皆で「Happy Birthday」を歌ってもらった事です。初めての経験で、本当に嬉しかった。食堂のメニューも栄養士さんのご配慮で、特製イチゴとケーキのデザート付きでした。そんな素敵な時間を「粕屋新光園」で過ごした後、当日は友人のNさん母娘に車で迎えに来てもらって、2014年の今日3月31日退院したと云う訳です。
下の文章は、退院当日の覚え書きを、後に「退院の日」と題して下書きしていたものです。病院内での出来事を皆さんに細かくお知らせするつもりでいましたが、この文をもって、その代わりといたします。機会があれば、また病院内での事を書いてみたいと思っています。終わりに、痛みなく毎日を過ごせている今日を迎えられたのは、施術して下さったDr.福岡はじめ担当医師の方々、看護師 • 理学療法士 • 病室の掃除をして下さった方々、そして何より入院患者同輩として私を楽しませてくれた子供達のお蔭です。皆さんに感謝したいと思います。
家族と、クリスマス会にて |
病院スタッフによる歌 |
私担当の理学療法士Tさん。この日は 西城秀樹の「YMCA」を歌った直後。 衣装はセロテープを張り込んだ自家製 |
3月31日(月曜日)、退院の日。朝6時頃、目が覚めて病室の窓から空を見上げると、何の鳥だろう(鴨あるいは雁の仲間?)か、V字形を作り20羽程が北へ向かって飛んで行く。ここ新宮町は海が真近なので、春になって南から北に帰る渡り鳥の群れの、どうやら帰り道のコースの一つらしい。初見である。いつもの様にベッドの上の布団をたたみ、検温と血圧測定を待つ。昨日の午後から、病棟工事のためにセントラルヒーティングのボイラーが止まり、病院内が驚く程静かだ。入院した日から3日間、ボイラーの暗騒音(かなり高いレベルの)で夜眠れず困った。結局、それから退院の一日前まで耳栓でしのいで来た訳だけれど、いよいよ退院と云う日に願っていた静けさが訪れた訳で、なんと云う皮肉だろう。
2017年3月22日水曜日
「第2回 暮らしの中の一枚の絵 展」のお知らせ
来月8日(土)から16日(日)まで、様々な絵画や版画を集めて2回目の「暮らしの中の一枚の絵」展を開催します。主な出品作家は、芹沢銈介や柚木沙弥郎またR • ゴーマン等になります。以下は、案内状の文章原稿と主な出品作品の紹介です。
新しい催事を企画する時に腐心するのは、その内容を上手くすくい上げて言葉に置き換える事です。個人の作り手の展観ででもあればともかく、様々な作品を用意した上での間口の広い催事ともなると、その難しさは格別です。今回も悩みに悩んだ末、以前、浦和の柳沢画廊と関係のある複数の描き手の展観の際に付けた催事のタイトル「暮らしの中の一枚の絵」を使う事にしました。さて、今展ではここ1•2年の間に手元に集まった絵画や版画40点余、芹沢銈介の型染絵あるいは「宮沢賢治遠景(用美社)」原画を元にした柚木プリント、同じく「旅の歓び(用美社)」原画数点、および「旅の歓び」の表紙文字型染原画や「少年民藝館(用美社)」表紙型染原画、また柚木プリント生地原画、そしてR•ゴーマンの油彩や水彩の小品、更に印度ムガール朝時代のミニアチュールや「古星辰図(部分)」等を用意しました。どうぞお出掛けの上ご覧下さい。
中央小品は芹沢銈介、左二枚は R•ゴーマンの油彩小品、右の二枚は 柚木沙弥郎で上はプリント生地の 原画、下は“たすき紋”のリトグラフ |
柚木沙弥郎「旅の歓び」原画と表紙文字型染め原画 |
柚木沙弥郎の型染めポスターや 「宮沢賢治遠景」原画を元にした柚木プリント |
2017年3月2日木曜日
忘れられないもの23 出西窯の仕事二種
出雲の出西窯(しゅっさいがま)と云えば、「民藝の世界」ではたいそう有名な窯です。戦後間もない1947年、当時20歳前後の農家の次男•三男五人が集まり、焼物の伝統が全くない土地で創業。
そうするうち、河井寛次郎、濱田庄司、バーナード•リーチ、柳宗悦など「民藝の世界」の(創業者メンバー•多々納弘光さんの仰る)御師匠樣方と縁が出来て、運営の形も当初は「企業組合」(現在は株式会社)として、現在につながる食器中心の仕事を主にする新しい民窯が誕生する訳です。
さて、その「出西窯」を私が初めてお訪ねしたのがいつ頃だったのか、もう一つはっきりしません。ただ鮮明に印象に残る訪問の記憶が二つ。一つ目は訪問時、最初に私の相手をして下さったのが、創業者五人の内の御一人で今も御元気な(筈の)多々納良夫(ただのよしお)さんであった事。そして、その日の私の買い物が、焼物の底に何処かの学校か組合の名前が釘彫りで書かれた(記念品の残りの)マグカップであった事で、この一つ目の「出西窯」訪問の記憶が正しければ、私の「倉敷民藝館」臨時職員時代の二年目か三年目で、外村吉之介(とのむらきちのすけ)先生に、あちこち見て来る様に云われた二ヶ所目(一ヶ所目は前年夏の徳島県の山間地での「阿波踊り」でした)だった筈です。だとすれば、それは’73年か’74年で、いまから43•4年前の事になります。
しかし、同時に二つ目の忘れられない「出西窯」訪問の記憶があるのです。それは、松江にたくさん雪が降った日、同市在住の金津滋(かなつしげる)さん(お茶人で、出西窯が、と云うよりこれも創業者の御一人、多々納弘光(ただのひろみつ)さんが、柳初期の論考「私の念願」を通して柳宗悦に出会う切っ掛けを作った人と申し上げておきましょう、当時すでに後述の大阪日本民藝館の陳列もやっていらっしゃいました)の御宅をお訪ねし、そこで苗代川(なえしろがわ)焼の黒釉の筒湯呑に、生姜を擂り下ろしたたっぷりで熱々の甘酒を御馳走になった事。その後、(多少前後関係が怪しいですが)お茶のお弟子の御一人がやっておられる料理旅館に泊めて頂いた事。その翌日に車を出して頂いて、松江の「神魂(かもす)神社」や「出西窯」に連れて行って頂いた事。この時の私の買い物が黒釉の縁付八寸皿であった事。並んでいる同種のもののうちどれが良いかわからず、金津さんに選んで頂いた事、等々。これが初めてであったとすれば、更に1•2年あとの事で、金津さんの御友人で、当時、大阪日本民藝館の主事をやっておられた鈴木尚夫(すずきひさお)さんに声を掛けられて、大阪日本民藝館の陳列替えの手伝いを始めていた頃の事になります。
さて、今日皆さんに御紹介するそんな出西窯の仕事二種は、どちらも40年以上前の仕事です。最初は引刷毛目の灰釉大皿(径 50cm 高さ 12cm) で最近の出西窯の仕事にはあまり見る事の出来ない調子の強い堂々とした優品、
次は刷毛目の茶碗でまことに程の良い大きさ、釉薬の調子も上々の佳品です。(径 14cm 高さ 7cm)